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明治生まれの人、約一世紀(100年)を生きてこられた人の言葉を今、伝え残したい。これから先、人生を生きていく私たちにとっての良きバイブルになり得ると感じます。

古き良き時代「明治」を伝え残したい

明治の人ご紹介 第7回 有馬 秀子さん

初心忘れず
何事も一生懸命

有馬 秀子さん

明治35年5月15日生まれ 東京都出身 東京都在住

新橋に近い銀座のバーでもう50年も現役のママを勤めていらっしゃる方がいます。
シャネルの20番のオーデコロンをつけて、指には薄い透明なマニキュアをつけたとても美しい上品なその方は、今年5月に満101歳になられる、明治35年生まれの有馬秀子さん。既に本も執筆され、メディアにも多々紹介されていることから、ご存知の方も多いのではないでしょうか。浅草生まれの浅草育ちでいらっしゃる有馬さんに1時間に渡りお話しを伺いました。

07-1.jpg もともと私は浅草で生まれ、女学校に入るまでは浅草に住んでおりました。当時の浅草は今と変りませんでしたよ。浅草寺もずっと昔からありましたし...。ただ浅草の町自体は、今のほうが寂れてしまっていますね。 皆さん何とか浅草に人を集めたいと、いろいろと運動していらっしゃるようですけど。もう今はいろいろなビルが建ってしまいましたからね。 私が子供のころは、やはりみんな観音様にお参りにくる方がいっぱいで大変なにぎわいだったようですね。

子供時代はオチャッピーって呼ばれていましたよ。東京弁で"お転婆"って意味なのですけどね、言いたいことを言って、あまり控えめではないことを言ったりして、活発でお転婆だったのですよ。 子供のころは5歳くらいからお稽古事をしていました。日本舞踊や長唄を教わりにやられたりいたしましたが、それがもういやでいやでしょうがなくて...。それでも毎日お稽古に通いました。 そのころお稽古というのは毎日あるのですね。今みたいに一週間に2度とか、月に何度か、というのではなかったのですよ。 私は遅生まれで、(数え年で)8歳のときが小学校1年生でございましたが、5歳くらいのころからお稽古事には通っておりましたね。

このお稽古事なのですが、踊りはもういやでいやでしょうがなかったのですが、行けと言われるものですから、通っておりました。ただ、女学校に入った時に、学校が忙しくなってきたからといって、踊りは止めさせてくれってお願いをいたしまして、踊りは辞めさせてもらったのですよ。ただ長唄のほうはずいぶんと長い間続けておりました。結婚するまで続けて、その後10年くらいは辞めておりましたが、その後、また続けましたのでね。 あたしはもう何をやっても物になりませんでネ...。(笑)

浅草の小学校を出た後は、両親や兄たちの勧めにしたがって、虎ノ門の女学館に入学いたしました。あの当時、浅草とか本所とかは下屋だけが東京だと思っていたらしいので、虎ノ門なんてあんな田舎へ行ってかわいそうになんていわれました。それに、はっきりとは覚えておりませんが、交通機関も市電を使って(当時は東京市でございましたので)、浅草から虎ノ門まで行くのは大変だったですね。 私には兄が3人おりましてね、真中の兄が勤めに出ていたものですから、その兄と二人で、女中を1人、(うちにいたのを頼んで、連れて行って、今の日本テレビがあります麹町ですか、あそこが学校に近かったものですから、あのあたりから女学館に通いました。 07-2.jpg

虎ノ門女学館時代の勉強は大変でございました。私立でございますけれど、英語の時間がその当時としては割合多くて、一週間に8時間ございました。これは当時としても、今の時代からみても(勉強が)大変でしょうね。当時、イギリス人の宣教師であられた外国人の先生が4人いらっしゃいまして、その方が、ずっと教えてくださいましてね。よく日本語がお上手な先生もあるのですけど、実際お教室では日本語を使ってはいけませんなんていわれましたね、そのころの外国人の先生は厳しゅうございました。

女学生のころは、大正文化といって、いわゆるハイカラなことがとても盛んでございましたね。今では皆さん外国にいらっしゃるし、外国に行くということ自体が珍しくない、ましてや外国人なんて珍しくないのでしょうけれどね。 当時、メリー・ピックフォードという有名な女優さんに憧れまして、その方に英語で手紙をだしたのですよ。そうしましたら、ちゃんと大きな自分の写真を送ってきて、そこに ミス・ヒデコ・ノグチ(注:有馬さんの旧姓)って書いてね、そして、筒のようなものにいれて送ってまいりましたよ。それから、これもたびたび(取材などで)申し上げましたけれど、当時はレコードのいいものは、日本にはないものですからわざわざヨーロッパへ頼むのですよ。そうすると今はもうないのですけれど、シベリア鉄道をゴトゴトいって、50日くらいかかって商品が送られてくるのです。

それから外国といえば、当時アメリカに行くといっても、そのころ飛行機はございませんでしたから船でサンフランシスコかどこかまで参りました。しかもアメリカまで行くのに船で40-50日はかかったのではないでしょうかね。本当にのんびりとした時代でございました。

当時は歌舞伎ですとか、相撲も好きでよく観ておりました。 私の実家では初代の中村時蔵(今の中村時蔵のおじいさまにあたるのでしょうか?)をじかにひいきにしていましたし、お相撲にしましても、場所(升席)を買ってありましたから、よく観に行きました。07-3.jpg

でも、今はもう歩くのが大変なものですから、歌舞伎もお相撲も見に行きませんし、デパートひとついきません。これまでは家のことや食べるものなんかは、家のものが(手がありましたから)やってくれましたけれど、そういったところに買い物に行った挙句に、また自分自身の身の回りをやって、家の中を片づけたりすると、もうそれだけでいやになってしまいましてね。それもね、若いときでしたら、何でもできましたけど、だんだん歳をとってまいりますと、もういやで全くどこへも出ません.近くのデパートで、ちょっとしたおかずなどは店の者(バーテンダーの中川さん)に買ってきてもらったりしますね。

女学校を卒業したのが、数え年で19歳でございましたね。そしてその後、21歳のときに結婚いたしました。見合い結婚でございましたが、縁あって結婚した主人はとてもすばらしい方でございました。その頃は恋愛結婚なんてしたら後ろ指をさされましてね、あのお嬢さんはだらしがないだとかいわれましたから、恋愛結婚なんて一切ございませんでしたね。ですから、みんな付近の人ですとか友達が、"あそこにああいうお嬢さんがいるとか、ああいう息子さんが丁度いい"とか、いろいろと面倒を見てくれるのですね。まあ周りには結構そういう世話焼きの方がいらっしゃいました。

結婚してからは、甲子園に3,4年住んでおりました。ええ、あの甲子園球場のすぐそばでございました。そのころ子供ができておりましたが、体が弱かったのです。そこには小児科のすごくいいお医者様がいらしたものですから甲子園を離れられなくて・・ 一方、主人(注:鐘紡でお仕事をされておいででした。)は京都のカネボウをみなくてはならなかったので、それまではずっと甲子園から京都へ通っておりました。 その後は、もう子供も丈夫になって大きくなりまして小学校へ行かないといけないというので、京都に移って5年ほど京都に住んでおりました。 それから昭和8年頃でしょうか、大阪の芦屋に移ってまいりました。そして、戦争がはじまり、終戦です。いろいろございました。

家にはお手伝いさんはおりましたが、お庭の掃除や、小さな植木を見たり花を植えたりするのは自分でやっておりましたよ。ただ、家の中のお掃除はしませんでしたし、自分でやった経験はあまりないですね。でもね、廊下なんかは糠で拭いておりましたよ。今の人はおわかりにならないのですけど、袋に糠を入れて拭いて、その後乾いた雑巾で拭くのです。 よくお友達が集まって、ちょっとお手洗いなんかに立つと、"気をつけないとダメよ。ここの廊下はピカピカして滑るから"なんてみんなにからかわれるくらい、光っておりましたよ。(笑)

当時の家というのは、芦屋だろうが東京だろうが、みんな借家でした。借家って書いたのがはすに掛かっていて、それで御用の方(借りたい方など)はどこどこへ、なんてありましたからね。 芦屋の家は敷地が100坪ほどございましたし、蔵もございましたし、物置が2つありましたね。ですからまあまあ広い家でございました、でも借家なんです。(笑)

芦屋にいるときに戦争が始まって、終戦も芦屋で迎えましたが、疎開は致しませんでした.子供がおりましたけれど、その頃はもう学徒動員でしたからね。 そういえば浅草の実家も空襲の被害に遭いました。その頃はもう両親も亡くなり、兄の代になっておりましてね。家ももちろん焼けたのですが、その近所では一番早く家を建てたって自慢をしておりました。それで、焼け野原の中に新しい家が建ったので恥ずかしかったって申しておりましたね。ちょっと皆さんご想像がつきませんよね。当時の東京は焼け野原で防空壕はあるし、よくもまあ東京もこれだけ立派になったものですよね。

終戦を迎えた後は東京に戻りました。主人はカネボウに勤めておりましたが、終戦直後に東京にあるカネボウの関係会社の一つを任されましてね、そこに行ったのですけど、上(の会社)から来たっていうのが、主人もいやだったのでしょう、もう歳も歳だったものですから、そこの会社を辞めまして、その後白金に割合と大きい屋敷を買いまして、そこにおりました。
その後、"お母さん、お家にずっといるくらいだったら、喫茶店でもはじめてみたら?"という息子の一言をきっかけに、五反田に小さな喫茶店を始めることにしたのです。07-4.jpg

- そこから有馬さんの50年にもわたるバーのマダム生活が始まることになります。五反田駅前に開店した喫茶店は「ギルビー」。有名なジンの名前で、ご主人が命名されました。 開店当時は、コーヒーや紅茶を出していたものの、その後お客様の要望にこたえるような形でビールやお酒を出す店となり、五反田の店が区画整理の対象となった1951年、銀座にお店を移転させ、「ギルビーA」として新たなスタートが始まります。今年で52年目を迎えるこのお店には昔から政治家、作家をはじめ、実業界で活躍する方々など、さまざまな世界のお客様が「ギルビーA」でのひとときを楽しんだといいます。そしてもちろん今でも、昔馴染みのお客様が「今日はママいるかい?」と、お店をのぞいては、有馬さんの「ギルビーA」で楽しいひとときを過ごしていくそうです。銀座コリドー街にある現在のお店「ギルビーA」は、お店の奥のほうまでカウンターが続いていますが、そこの壁棚にはギルビーの小瓶がたくさん並んでおり、50年現役で働き続けていらっしゃる有馬さんを暖かく見守っているかのようにみえました。
(注:お店の名前が「ギルビー」から「ギルビーA」と変わっていますが、これは五反田の店を銀座に移転させたときに、変わったものです。 当時、銀座にギルビーという名前のお店が既にあったことから、"有馬"のAをつけた「ギルビーA」が銀座コリドー街に誕生したとのことです。)

もうお店を50年続けておりますが、辞めてしまおうと思ったことはございませんね。割合、人間が強情ですから、やり始めた以上はやはり続けないと、という気持ちがございました。それにお客様が大変いい方ばかりですから、今日もこれから、そういうお客様方が自由にお店にいらっしゃいますしね。(注:夕方の開店前にお店でお話しを伺いました。)

常に自分で心がけておりますのが、初心忘れず、ということですね.それはやはりご恩になった方のことを忘れてはいけないし、自分が困ったときのことを忘れてはいけないし、いい思い、いい時のことを忘れてはいけないということが大切なのではないかと思います。それから、私はぶきっちょでしてね、何事にも人様より劣っていますから、一生懸命する以外ないのですね。 以前(出版した本に)書いたのですけれど、有名な選手がいらっしゃってね、その人が一番嫌いな言葉が一生懸命だって。そういう人はいいのですよ、天才ですから。一生懸命やらなくてもね、一番良い成績が取れるのですから、いいですよ.私なんかは一生懸命やったってなかなか・・ね。 でもやはり、一生懸命やってきて良かったなって思いますね。やはり、こういう商売は一生懸命しておりますと、こちらの気持ちがお客様に通じますからね。

- "「ギルビーA」は私の人生そのもの"とおっしゃり、"今日一日、いい日であるように"と願いつつ、毎日一生懸命お店に出られる有馬さん。ご自身が執筆された本の中で、"いい出会いが、いい人生を呼び寄せた。お客様の思い出こそ何者にも変えがたい宝である"と述べておられます。銀座には何百件もバーやクラブがありますが、その中で「ギルビーA」を選んで足を運んでくださるお客様への感謝の気持ちを常に持ち続け、こうしたお客様に対し、どうすれば喜んでいただけるか、どうすればお客様が美味しく楽しくお酒を召し上がっていただけるか、ということを常に考え、50年以上もその努力を続けてこられました。

- これまでの100年の人生の中で、一番心に残っていることは、息子さん夫婦を亡くされたこと、と有馬さんはおっしゃいます。有馬さんのご主人は今から40年以上前の1961年に脳出血で亡くなっています。そして、14,5年前には、一人息子さんをガンで失い、さらには後を追うように、お嫁さんも脳出血で亡くなるという二重の悲しみに襲われました。"まさに茫然自失"となり、"生きていても仕様がないから自分も死んでしまおうか"とまで思いつめ、人に迷惑をかけずに自殺する方法について考える日々が続いた時期もあったといいます。 しかし、そのような状態から立ち直るきっかけを与えたのが、ほかでもない「ギルビーA」でした。 悲しみのどん底にいる中で、常にご自分を待ち続けているお客様のために、"心の中で泣きながら"お店に来続け、お客様のお相手をすることで徐々に家族を失った悲しみが癒されていったそうです。また、お店のお客様も彼女のその悲しみを察し、気をつかっていいお話しをしてくださったことも、有馬さんを精神的に支える力となったのでしょう。 有馬さんも本の中で"本当にギルビーをやっていてよかった、としみじみ思った。"と、当時のご自身を振り返っていらっしゃいます。

- 余談になりますが、有馬さんの著した「今宵も、ひたすら一生けんめい」に"いくつになっても女は女でございます"という章があり、やはり顔の手入れもせず、髪もぼさぼさのままでいるよりは、いつも身なりをきちんと整えた感じのいい人でありたい、と書かれています。 インタビューをさせていただいた日の有馬さんは、深いワインカラーのブラウスと、黒いロングスカートというとてもシックな装いでした。 また、横でお話しを伺いながら、有馬さんのきめの細かいきれいなお肌(乾燥肌でお悩みとのことで、牛乳で洗顔されたり保湿クリームを使ったり、工夫されているそうです。)や、透明なマニキュアを薄く塗った指先がとても印象的だったのですが、それ以上に印象的だったのが、有馬さんの美しい言葉遣いです。 自分の国の言葉が、これほどしとやかで美しいものであったのかと改めて感じるとともに、私も含め、今の日本でどれだけの女性がこのように自然で美しい日本の言葉を話すことができるだろうかと、少々恥ずかしい気持ちになりました。 またインタビューの間、有馬さんが身振り手振りでお話しをされるたびに、ふっといい香りが漂います。もしやと思い、そのことを尋ねると、こんなコメントがかえってきました。

ええ、シャネルを使っております。 シャネルといえば5番が有名ですね.でも、これも皆さんに申し上げるのですけれど、あれはちょっと甘くて、若い人でないと似合わないのですよ。 もう歳をとりましたから、シャネル20番のオーデコロンを使っております。香水ですと強いですし、甘い匂いがしますからね。

いつでしたか、シャネルの19番をつけてお店にでておりましたら、若いお客様なんですよ。親しい方だったのですが、いらっしゃいませと立ち上がったら、その方が "あ、シャネルの19番!"っておっしゃったのですよ。あれにはびっくり致しましたね。男の方が、香水の番号まで知っているなんてね。 最近の女性は、あまり香水をお付けになりませんね。でもまあ女性の若さのいい香りがありますから、香水は必要ないのかしら...。(笑)

- 明治、大正、昭和、そして平成と生きてこられた有馬さんの百余年のすべてを知るにはあまりに短すぎる1時間のインタビューでしたが、嬉しいこと、楽しいこと、そして辛いことなどをすべて経験されたあとに残る、有馬さんにとって懐かしく、大切な思い出の一部を共有させていただくことができ、嬉しくまた大変ありがたい気持ちで胸がいっぱいになりました。 あらためて有馬さんからのメッセージを振り返り、今自分が平和な日本社会で生活できていることに感謝の念を忘れず、人様のお役に立てるような仕事を続け、前向きに精一杯努力をしながら生きてゆきたいと心から思います。また女性として、一社会人として大先輩であられる有馬さんを目標に、常に自身を磨いていきたいと深く感じました。 これからも、ますますご健康で、ご活躍いただき、「ギルビーA」のバーカウンターから、世の中の若者たち(70~80歳の方々も、有馬さんから見るときっと若者にみえるのでしょうか!?)を暖かく見守り続けていただくよう心からお祈りしています。

- 参考文献 -
・ 今宵も、ひたすら一生けんめい: 有馬秀子(ソニー・マガジンズ、2002年9月)
・ 東京人 march 2002 no.176: (都市出版、平成14年3月)

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