柳生 亮三さん
明治38年10月26日生まれ 広島県広島市在住
オヤジが横浜税関に勤めてました。東京の外語学校に行った後、アメリカなんかの船を相手にしてたんですが、明治三十八年頃、日韓併合で朝鮮が一緒になって、朝鮮の清心(チョンジン)の税関長になりましてね。兄と姉は岐阜にある母の里に学校があったので、そっちにおりました。三つか四つの頃。弟・しろうが生まれました。
六歳か七歳の時に、小学校へ入るために母と一緒に郷里の岐阜に帰りました。
小学校の頃、母の兄の家(本家)に、僕よりひとつ若い量二というのがおって、りょうちゃんりょうちゃんと呼ばれていた。同じ名前なんで、僕のほうは「チョウセンりょうちゃん」と呼ばれていました。
母は活動写真が好きで、弟とよくつれていってくれました。洋画も邦画もよく見ましたけど、僕が非常にショックを受けたのは、ローマ時代の映画でスパルタカス。ある英雄の映画なんですが、主人公の少年時代にショックを受けましたねえ。水をかぶったりねえ。寒いのにねえ。
私は体が弱いのでねえ。今でも冷水摩擦をやってますけど、運動会では一番ビリでした。オヤジは朝鮮にいますから、しょうがないからおかあさんがお寿司なんかとってね、観覧席に座って。僕がビリを走るもんですから、みっともなくてね。一生懸命走ってもダメなんですねえ、心臓が弱いから。いやあ、でも僕も頑張りました。
岐阜中学に入ったんですが、当時試験が難しかったんですよ。オヤジが喜んでくれましてね。スイスの時計を贈ってくれたのを覚えてます。
甲組乙組丙組とありまして、私は丙組に入ったわけです。一番若いクラスだったんですが、先生方が丙組に来るのを一番喜んでねえ。「ここに来るとみんな若々しいので自分も若返る」って。体育の時間なんかは参りましたねえ。学校の回りを走るんですが、一番ビリですわ。しょうがないですよね。心臓弁膜症でしたから。先生が、私について走ってくれました。
二年の時かな、富士登山がありましてね。登山希望者が集められる時、心臓が弱いから言うて僕だけ外されましてね。悲観して帰ってきたら、母親が「そいじゃ、近くのお医者さんに診てもらおう」ということになって。いつもの近くのお医者さんに診てもらったら「大丈夫大丈夫、そのくらいならいけるよ」言うてね。証明をもらって学校行ったら「そうだなあ...しょうがないなあ」言うてね。それで私も許されて、富士登山に行きました。
二十名ぐらいで行ったんですよ、静岡県のほうから入るんですけど、ずーっと登って頂上まで歩いていって、今度は山梨県のほうから降りるんですよ。みんな一緒にスタートしたんですが、僕は頂上についたのが第三着ですわ。頑張ったんですねえ。他の連中は、道草くったり、そこらで争ったりねえ。僕は真面目に歩いたから、三番目に着けたんだと思います。頂上に登ったら曇天でねえ。
兄はずっと体が弱くてね。先天的に腎臓が悪くて、早くに死にました。母親は私の弟のしろうとやすおをつれて朝鮮に行ってしまいました。オヤジはその頃もっぽの税関長でした。
卒業しましてどういう道に行こうかと思ってましたら、オヤジが「りょうぞうはお金はもうけることは出来ない。教育者になるかお医者になるか、あるいは宗教家になるか、三つしかない」といわれましてね。ところが幸い中学の四年生のときに、一番上の姉が福井の歯医者さんに嫁に行くことになって。姉に引き取られて、福井中学に入りました。岐阜中学の三年を終わったところで、姉に引き取られて福井中学に転校しました。
ところが福井というところは気候が悪くてね、私の心臓にも影響したんでしょう、ひどい脚気になりましてね。歩けなくなったんですよ、足が膨れたりしてね。半年ぐらい福井でぶらぶらしてましたが、都合のいいことにオヤジが朝鮮のチンナンポウ(今はナンポウ、ピョンヤンの港)の税関に勤めることになって、ここに日本中学ってのがあったんですわ。出来て四、五年ってとこだったんですが、ここへ四年生として転校しました。岐阜中学から福井へ、それから日本中学へ。転校ばかりでショックでした。
最初の時間に先生にカメてのがいまして‥先生の名前を覚えんのです。あだ名ばっかりで呼んどったもんですから。どうしても出てくるのはあだなのほうで。で、そのカメが問題を出したら、出来たのは私だけなんですわ。福井中学は進んどったんです。そやからその問題は楽に解けたんです。そしたらカメが来て、説明もなくいきなりぴっしゃーんと叩くんですわ。痛かったなあ。腹が立つより涙がぽろぽろ出てね。「わしゃやめる」言うて寮に帰って、オヤジに「こんな学校はもうやめる」言うて手紙書いたんです。こんな野蛮な学校におれん、言うて。チンナンポウにはりんご畑がたくさんあったんで、りんご畑で働くからって書いたら、オヤジが手紙書いてきて「馬鹿言うな。何でも我慢せなダメだ。韓信のまたくぐりっていう話がある。少年時代、がき大将に「おい貴様、俺の股の下をくぐれ」と言われても、我慢してくぐった。その忍耐強さから、後に英雄になった。我慢しておれ」と言われました。野蛮な中学じゃなあと思ったけれども、結局二年我慢して寮におりました。
カメというのはホントにカメみたいに背中を丸めて歩く先生でね。みんなで「もしもしカメよカメさんよ」なんてからかったら、カメが怒ってね。「今歌うとったんは誰や!」言うたけど、みんな「知らーん」言うてね。「歌を歌った奴が出るまで帰さん」と言うことになったんです。僕は幸いなことに寮にいましたからね。へっちゃらですわ。夜中になったって構いやせん。結局、夕方になったらみんな帰りますわ。
でもカメは親切なこともあったんです。修学旅行があってね、カイジョウってところがあって、ソウルの下あたりですかね。歴史のある古いところなんですが、古い城壁みたいなところを歩いとったら、腹が悪くなってね。引率してたカメに言って、横にあった竹林にもぐって用を足したら、カメはわざわざ心配して竹やぶの入り口立っとるんです。そういうところもあるんですねえ。カメと一緒に駆け足で、みんなに追いつきました。だからね、しょうがないですよ。頭殴ったりしても。
寮生活がよかったですね。みんな毎日歌ばっかり歌っとって。マンドリンなんか持ってくる奴がおったりしてね。
卒業して、教育者になるつもりで広島高等師範学校を受けたわけですね。私はカメに聞いたんですわ。東京高師(高等師範学校)と広島高師、もちろん東京を受けようと思うと言うたら、「やめやめ、あそこの問題はひねくれとる。しかもここの校長は広島の出じゃ。何かと都合がいいぞ、広島を受けい」といわれまして。広島を受けることになりました。朝鮮におる学生は、朝鮮で試験を受けられます。ケイジョウのある部屋に閉じ込められて、広島から送られてきた試験を受けました。僕はね、物理科学が好きだったんです。物理や天文が特に好きで、飛行機で飛んだらどうなるかな、あそこの空に星があったらどうなるかな、そういうことばっかり考えてね。ところがね、高等師範の第一希望に「物理化学」と書いて、第二希望を空白にしておくのももったいないんでね、「生物」と書いておいたんです。第一志望はダメでしたわ。化学は福井中学では三年の時に終わっていて、私はその後に転校してきたもんですから、習ってなかったんですね。歯科医の義兄が気の毒がって、よく夜に教えてくれましたから、何とか知識はあったんですけれど。四年に入っても化学の古い本を読んでたりしたんで、まあまあ大丈夫かと思ってたんですけど、ダメでしたねえ。第二希望の生物を受けるために、ケイジョウの宿屋で徹夜で教科書を読んだんですが、そいつが当たったんですよ、うまいこと。第一志望の合否結果はダメでした。教育者になれないんなら今度はお医者になるつもりで、ケイジョウの医科大学を受ける準備してたら広島から電報が送られてきました。「第二志望の補欠に入れ」。第二志望言うたら生物やないか、イヤだなあと思ってたらオヤジが「行け」って言うでしょ。イヤだと思ってたけど、カメも広島出たらこの学校に戻ってこられる、行けっていうんで。
広島に来たはいいけど、補欠に入ったでしょ?最初、作るのが間に合わなくて制服がないんですよ、僕のだけ。僕だけ和服でね。絣の着物で、袴はいて、鉄砲かついで歩いとった。みっともないですよ。競練の時なんかね、何か白虎隊かなんかみたいで。歩くのはまあ、我慢できますけど。飛行機が来ると、みんな寝転がって仰向けになって、飛行機に向かって鉄砲を構えるんですが、寝られんですわ、袴や絣がもったいなくて。お母さんに申し訳なくて。制服が出来るのに二週間ぐらいかかったかな。
出席番号が一番ビリだったんです。僕の前には中国からの留学生が三人いた。僕の前の三人が、こうきんきん、もうていほう、ちょうきょうふく、って言ってみんな三文字で名前が書いてある。「柳生 りょう」まで書いてあって、「ぞう」が抜けとる。しかも名前が鉛筆で書かれてある。だから出席簿呼ぶときに「りゅうせいりょう」と呼ぶんですよ。僕は手を上げて「僕は大和民族です!」といったらね、「何、君は日本人か。いや、失礼失礼。中国人かと思った」って言われてね。失礼な先生だ、もうやめようかと思ってね。泣いとったですよ、情けないなー、と思ってね。留学生の一番後に入れられて。どれだけ行李に荷物詰めて帰ろうかと思いましたけどね。でも待てよ、オヤジに言うたらまた例の「韓信のまたくぐり」が出てくるだろうし、我慢したわけですね。
でも、ええこともあった。実験やら何やらするのは四人づつグループになるんですが、僕は「りゅうくん」として例の中国人三人と同じグループになりましてね。不思議なもんだねえ。四年間毎日行ってるでしょ。中国語を覚えてしまって。おかげで将来、天津の女学校に勤めたりするんですけどね。
生物は嫌々だったんですがね、ひとつだけよかったのは顕微鏡を一台づつもらえた。こいつは都合ええですね。専用ですからね。ところが二週間遅れたもんだから、僕は顕微鏡の使い方がわからなかった。それをこの三人が親切に教えてくれました。温室の上にある、水溜りをみんなですくってね、それを覗いたら、ゾウリムシやミドリムシやらいろんな微生物が出てきて、面白くてね。日本学校でチャンパンが、ああ、これはあだ名ですが、チャンパンが生物を教えてくれたときは、顕微鏡がたった一台しかない。行列作ってね。「はい、その次」「その次」なんて顕微鏡を覗かせてもらうだけだったんです。ここに入ったら贅沢ですよ、一人一台なんだから。そのとき初めて微生物を見たんですよ。ショックだったですねえ。日本学校で見たものは竹の皮やら何やら、動かんもんやったんですが、微生物は動くじゃないですか。片っ端からスケッチしましてね。面白くなって、とりこになってしまった。それは単細胞の微生物が動き回ってる。アメーバーやらゾウリムシやらが、スケッチブックにどんどん増えていきましてね。名前がわからんもんですから、Aちゃん、Bちゃん、Cちゃんなんて名前をつけましてね。でもそれも26個で尽きてしまうもんだから、A'、B'、C'なんてつけていって。助手の先生に「こういうものが出来た」っていうと、先生びっくりしてね。「先生、これの名前を教えてください」って言ったら「ぜんぜんわからん」といわれました。参考書はあるか、と聞いたら「この学校にはない」と言われましてね。しょうがないですから、本屋に行って外国の専門書をオヤジに無理言うて買ってもらったりね。とうとう生物の専門家になってしまいました。四年間、楽しかったですよ。
天皇陛下が見学に来られたことがありました。「陛下は特に生物がお好きだから」というんで、教室を特別にご覧になって。僕は顕微鏡を覗いてましたらね、陛下はそのとき、僕のところに立って、私の絵を見ておられた。物は言われませんでしたけどね。陛下というのは非常に雲の上の人でもったいない人で僕の後ろにしばらく立っておられたのが記憶に残っています。
高等師範を卒業して、徳島の女子師範学校に行きました。一緒に卒業した十八名は、中学なんかに行ったんだけど、僕だけねえ、「女子」がついとるじゃないか。それで不平を言ったら「いや、君、しかし「女子」の下には「師範学校」がつくじゃないか。普通はみんな中学校だ。君だけ「師範」というのは特別に偉いんだぞ。先生の先生になるんじゃから」と言われて、そうかなあと思って我慢してたね。「先生、女の子は教えにくいなあ」と言うたら、「なあに、たいしたことないぞ。教えるときは一人ばっかり顔を見て教えたらいかんぞ、みんなの顔を一様に見りゃあええ。なあに、世話ぁない。天井向いてしゃべれ。そしたら公平じゃから」って言われて。
師範学校には一年半ほどおってね、そこで「広島に文理科大学ちゅうのが出来る。よし、そこに行って自分の好きなアメーバーなんかの研究をやろう」と思って。でも、その前にお金を貯めようと。オヤジは「三年間大学出るぐらいまで、お金を出したるよ」と言ってくれたけど、迷惑かけちゃいかんと思ってね。日本におったら稼げないから、植民地か外国に行ってお金をもうける。それで大連、ハワイにある日本中学の校長に勝手にどんどん手紙を出した。返事は来ましたねえ。やっぱり高等師範っていうのはよかったんだな。日本中学の時に大連に行ったことがあって、港町で非常に景色がよかったから、大連の女学校に行くことに決めました。
「お金を稼ぎたいから、植民地の、大連の女学校に行きます」って言うたら、校長が怒ってねえ。「一年半でやめるとは何事だ、少なくとも三年はおらないかん」他の先生が東京高師ばっかりで、広島高師からは僕しかいなかったもんだから、母校のためにも、そんなに早くやめるわけにいかん。しょうがないなあ、と思ったら、運がいいねえ。校長が栄転していって、広島高師卒のおじいちゃんが校長になってやってきた。こりゃええわいと思ってたら、承諾はしてくれたものの、「そしたら君、後任を紹介してくれ」と言われましてね。しょうがないんで、母校の同級生にあちこち手紙だしたら、喜んで来るってのがいましてね。
無事に後任も決まりまして、正式に辞めることになったら、突然「これから全校生徒、講堂に集まれ」と放送が入りましてね。僕の送別式ですわ。講堂に行って、校長が「柳生先生が大連の日本女学校に行くことになりました」って言うたら、びっくりしたねえ。みんな、わあわあ泣き出してなあ。あんなに泣かれたことは初めてじゃ。びっくりもしたけど、感激しました。「忍び泣き 男先生のお別れ」って、新聞にまで載りました。「講堂の乙女ら泣かせし転任」ってね。泣き止ませるのが大変でした。
僕はいつも、天井向いてしゃべってましたからねえ。公平にせにゃいかんってね。相手にはしてなかったんですけど、親切にはしてやった。細かく教えてあげた。それが良かったんですかね。昨日も大連女学校の卒業生が、同窓会に僕を呼びに来るんですわ。みんなおばあさんになってるけれどもね。一番年取ったのが93歳、若いので73歳ぐらいですわ。広島の街に三十人ぐらいで集まって、毎年みんなでわあわあ言うてね。東京でも毎年やりますがね。東京へもいっぺん来いと言われとるんですが、面倒くさいから行かんですわ。私はええかげんなことを喋るんですよ。それをまたよろこんで聞いとるんですわ。みんな、最後は握手して別れていく。もう今度はやめようかと思ったけど、是非来てくれって言うからね、挨拶だけしました。
どうして僕はこうもてるんですかね。大連の弥生というところで、今度は色気のついた娘さんじゃない、小学生の担任にあたってね。遠足があったの。大連の郊外に丘があるんです。生徒には港に向かって自由行動です、言うて僕は一人で山のほうへ歩いて行ったら、来るわ来るわ、僕の後にいっぱいついてくる。他の先生にはついていかんのですよ。しょうがないからこれは何とかのほこらだとか教えながら行くとね、「先生、これ何て言うの」「何て言うの」...うるさいからね。みんな手に持って浜辺まで行こう、って言って僕が走り出すと、みんな走り出してね。「先生待ってくれー」「待ってよー」って、袖をひっぱる奴までおってね。とうとう洋服が破れたの。まいったですわ。
女の子ばっかりじゃないんですよ。天津ではね、男子ばっかりの日本商業学校っていうのがあってね。そこも女学校と兼任で教えに行った。
四年生、五年生はいいんだけど、一年生がかなわんわね。僕が植物や動物の話をするときにね、教科書の中だけじゃ面白くないから動物に会った話とか、探検の話とか、いい加減な作り話をするわけです。それが面白かったんじゃろうなあ。坊主たちが「話の続きをやってくれ」って、日曜にも来るんですわ。眠いでしょ。ベットに寝転がったままでおると、坊主たちがぐるっと取り囲んでね。僕は作り話をするんだ。向こうからタヌキが僕の側に来て、かわいがられるとみんな喜んで寄ってくるとかね。それを喜んで聞くんじゃねえ。かわいかったねえ。みんな、坊主たちは。
30半ばの時に結婚しました。天津の日本女学校に四年ほどいましたが、広島に戻ってこいって言われまして。尾道の向かいの島にある、広島大学の臨海実験所ってところで助手をしてました。家内も天津にいたんですが、私より1年半後に戻ってきましてね。別にね、特別に喋ったことはないです。ただ、たまたま親切にごちそう食わせてくれたんでね、覚えてましたけれど特に何とも思ってなかったです。家庭科の先生として、奈良女高師にいたの。丸池っていうてね。天津におったときに料理の試食に呼ばれたりして、おいしいおいしいってほめたことがあってね。親しくしてた体育の先生が、「柳生先生、丸井先生をもらわんか?一人でおったら不便じゃろう」言うてね。もらわんか、言うたってね。自炊してましたからね。その先生が助教授のところまで行って、「柳生さんが一人でいるのも気の毒だから、嫁さんを世話してやりたいと思ってるんですが」って言うたら、賛成って言うたらしい。それで助教授が「先生から聞いた。嫁さんを世話してもらえ」って言うて。じゃあ、しょうがないな、そうしましょうっていうことになって。島みたいな寂しいとこでもいいか、って聞きましてね。
けんたろうは、向島で生まれました。もう戦争が始まっとって、瀬戸内海は潜水艦や魚雷があって危ないと言われとった頃でした。宮崎に家内の里がありまして、呉から船に乗って、大分の港までお産に行って帰ってきました。
九州よりも広島のほうが安全だろうと思ってた時に、原爆が落ちました。39歳の頃ですね。広島から東、むかいなだに東洋工業という工場があります。自動車の部品とか飛行機のプロペラなんかを作ってるところなんですが、そこに高等師範の生徒を動員していました。30人から40人連れてね。向島の寮に泊まって毎日働いてました。8月5日はちょうど休暇で、広島に借りていた家に帰りました。家内も宮崎から赤ちゃんを連れて、広島に戻ってました。
明くる朝10時に、広島の真ん中にある川のたもとに集まって、建物疎開の手伝いをすることになってまして。爆心地から2キロほど離れたところで寝てました。いつもならよちよち歩きの子供が、外で友達なんかと遊んでるような時間なんですが、その時に限ってどうしたもんかね、家内と一緒に蚊帳の中で寝てましたわ。ちょうど8時前でしたかね。僕もそろそろ出発せにゃならんと思いつつ、新聞読みながらね。あっと思ったら、屋根が飛んでて、青天井になってました。カーッとひかって、ダーンという音がして、縁側に置いてあったタンスが、爆風で頭の上を飛んでいってね。てっきり、僕の家に爆弾が落ちたんかと思ったんですよ。屋根は全部落ちて、柱だけが残ってましたよ。酷い目に遭ったんですわ。窓側におったもんですから、僕だけガラスがたくさん刺さって、目は片方つぶれましてね。家内と坊は、蚊帳の中におったんで助かりました。その日も朝から空襲警報が何度かあったんで、ゆっくり蚊帳の中で寝てたのが幸いしました。外にいた子はみんな血だらけでね。水道が出てましたんで、うちで目を洗ったりしましたが、みんな死にました。その晩はどうすることもできずに、近くの山の麓に行って寝ました。みんな蚊帳を持って行ってね。まあ、その時の話は話しにならん、お話できんほどです。
原爆症で、それからずっと下痢しました。目に入ったガラスは、僕の友達が夕方やってきて取ってくれました。それから学校に報告に行きました。生き残った先生だけでね。血だらけになってたり、びっこ引いたりね。その途中は、死体がごろごろ転がっててね。東練兵場てところを横切る時、学校動員の中学生がたくさん死んでましたわ。仰向いて、手を組んでね。体は焼けてしまってみんな真っ黒ですよ。男性のシンボルがね、空を向いてるんですよ。かわいそうにね。
それから川沿いを歩いてると、今度は女学生が倒れとる。これもみんな仰向けですわね。大事なところには瓦が乗せてあった。これは誰かが僕より前に来た連中が後から乗せたんでしょうが。僕も瓦を乗せてやればよかったんだけども、そんな瓦も転がってませんでしたよ。
それから電車道に来たら、電車に引かれた人がそのままで...話しにならんな。橋の上から河原見たら、川べりにも、黒こげになってごろんごろん転がってる。かわいそうに、みんな、水を飲みに来たんですね。今でも思い出すのが、一人若い女の人が、可哀想に物も言えんと水を求めてね。その辺に水がないんですよ。帰りにはもう見ませんでしたけど。
二番目の子供、おさむは戦後生まれです。だいぶ落ち着いてから、敗戦後に焼け跡にバラックを建てまして、そこで生まれました。この子が生まれた頃は、だいぶ平和になってました。
それからずっと広島大学で、定年まで勤めた後、ひじやま女子短大の教授をしてました。
宮内庁で生物学の研究をしてらっしゃった方と学会が同じだったことがご縁で、天皇陛下が見つけた新種の生物を、頼まれて本にまとめたりしてました。宮内庁に呼ばれたりしたこともありました。昭和52年と53年のことです。一度目の時は定例で毎年学者を呼んで話を聞くんですけど、このとき広島大学から行ったのは僕だけですよ。その時いたのは東大、京大、北大。原生動物、小さい3cmぐらいの動物の話を一人あたり30分ぐらい話しましたね。陛下の顕微鏡を持ってきて、それを見せるのよ。陛下、喜んでご覧になられてねえ。一生懸命、まじめですわ。
(天皇陛下は)珊瑚とかね、海についてる寄生虫の研究をしてらっしゃいました。ある時珊瑚にびっしりとついてるのがいて、これの名前がわからないといって、その虫の写真を送って来られました。これは珍しくて日本ではまだ記録がありません、って送り返したら、侍従が「天皇陛下が直接話を聞きたいから、柳生を呼べと言うてる」って。しょうがないなー、また行かなならんなーということで。二回目は、研究所に僕だけ呼ばれて。これは名誉なことですよ。正式に、個人的に呼ばれたんですから。集めた資料を見て、僕が説明したんですね。陛下がのぞき込まれるんですよ。「これはどう?これはどうなっとるの?」と質問されるから、説明しとるわけですね。陛下の頭がすぐそこにあるんですよ。ああ、白髪があるなって、毛が数えられるところにあるんですよ。仮に僕が気が狂っとったら、どんなことをするかわからん、ここで陛下の頭押さえでもしたら、どういうことになるかと思って、変な想像なんかしましたねえ。亡くなられる10年ぐらい前の事ですね。僕より4つぐらい上ですから、兄貴みたいな感じですよね。40分ぐらい喋ったかな。私の講義はこれで終わります、資料は差し上げましょうかって言ったら、ご自分で資料をちゃっちゃっと集められてね、侍従に渡そうとされるから、僕が丸善の紙袋にお入れしてお渡ししたら陛下が受け取られました。ありがとうとはおっしゃいませんが、天皇陛下はちょっと偉そうにお話されるなーっと、敬語はお使いにならないものだなーっと思っておりました。まあ、こっちは下々のもんですからね。しかし礼儀正しいですよ。侍従に「お入り下さい」と言われて入ったら、陛下が立っとられるんですよ。頭は下げんけれども、陛下がこっちきて「お座り下さい」おっしゃて、僕の後からお座りになるんですよ。講義が終わった時も、陛下も立たれてね。玄関先で振り返っても、まだ見送ってらした。先生として迎えられたんだなあと感激しました。
この時のものを「伊豆半島沿岸における新島のきゅうかんちゅう」として英語、ドイツ語、ラテン語で発表しました。陛下が発見されたものですから、喜ばれましてねえ。お通夜も呼ばれたんで、行きました。亡くなられた時に棺桶に乗っとったんですわ。
教え子がたくさんおるからねえ。手紙来たり、何か送ってきたり、いろいろ大変ですわ。そういうおつきあいでお返事書いたり、研究やスケッチを本にしようとまとめたりして結構忙しいです。本にまとめるにはもう三年ぐらいかかりますね。105歳までは生きないと。この間は免許を更新しました。車も運転しますし、自分でトンカツも揚げます。一人暮らしですから。ヘルパーは週に二回だけ来ますけど、自分で作りますね。だから誰かが来たら、その人たちの分も作りますよ。朝はベーコンエッグとトースト。郵便局や、銀行に行ったりするのは自分で行きます。
部屋も綺麗にしとるでしょ。分類学が専門ですから。海外へも何度か、学会の発表で行きました。家内がリュウマチで10年前ぐらいから寝たり起きたりしてたんで、それから料理を作るようになりました。レシピを聞いてメモを取ってね。肉が好きですね。トンカツとかライスカレーも作ります。しゃぶしゃぶなんか、簡単でいいですね。昼はうどんを作ったり。すぐできるし、非常に簡単でおいしくていいです。カルピスはもう、毎日飲んでる。お酒は飲まないんですけどね。塩をなるべく取らんようにね。血圧が高いんですよ。
自炊することはええことですよ。好きな物作って食べられるから。人を集中させますね。脳細胞に大変都合がええんですよ。女性のほうが長生きするのがわかりますよ。主人をごらんなさい、ただ作ったものを食っとるだけや、これじゃいかんわね。自分で火の加減とか味加減とか、おしょうゆ加減とか、自分でやってみないかん。うどん煮る時でもね、待てよ、今日は塩を入れるのちょっと忘れたなーと思ったりね。そういうことでしっかりするんでしょうねえ。気にしてるとボケないですわ。食べることは毎日のことだからね。三回ちゃんとしてます。何にも苦に感じませんよ。ただ、材料を買ってくるのは面倒くさい。買い物は、週二回買ってきてもらえれば間に合います。ひとつも心配ないです。食いたくないと思ったら、食わんからね。
家内は一昨年の1月3日に、91歳で亡くなりました。もう三回忌ですね。102歳の僕の誕生日に一緒にやりました。亡くなる前は一年ほど入院してたんですが、毎日車で見舞いに行きました。旦那の鏡や言われてね。介護士さんもそんなに長いことついていられないでしょ。だからそれは僕の仕事や言うてね。一時間ぐらいかけて、食事を食べさせたり。もう毎日看護して。回りの若い人たちには、「いつも元気もらう」って言われました。しょうがないですわ、僕が行かんとね、やっぱり。ほっとくわけに行かんですから。家内が物を言ったことはない。ただ、元気か、と言ったらうなづくぐらいで。でも、心が通じてましたね。嬉しそうな顔するから。最後まで僕を尊敬してましたね。十年間ぐらいはどうもこうもならんかったですからね。リュウマチは怖いですわ。
教え子が先に死んでしまうんですわ。情けないことにね。
教訓なんて偉そうなもんはありません。ただ、好きなことをやっとるだけです。コレしかできないんですから、僕は。くよくよせんこっちゃな。待てよ、お友達はみんなもう死んどるじゃないかと思うとね。こりゃどうもならんなあと思ってね。
あとやっぱり、希望を持つことですかね。これだけはせにゃ、と思ってね。悲観せんこっちゃな。