高橋 千夏さん
明治44年8月18日生まれ 東京都出身 京都府京都市在住
「高橋千夏さんは明治 44 年生れ、現在 97 歳のスーパーキャリアウーマンだ。小柄なお体をクラシックな紺のスーツにきちんと包まれた上品で若々しいお姿には、思わずそのお歳を疑ってしまいそうになる。
高橋さんは 4 歳にして、 1 年間のアメリカでの生活を体験なさった帰国子女でもある。また外で働く女性が珍しかった時代に、仕事を持ち世界を舞台に活躍してこられた、働く女性の草分けでもある。
大阪府女子学問学校、平安女学院短大で助教授を歴任され、その後アメリカの大学に留学したのち、同校の教授に就任。帰国後関西学院大学の非常勤講師として、これまで多くの生徒たちに英文学を教えてこられた。
「主人が病気になって、私が働かなければいけなくなりました。でもそれが、私にとってはよかったんです。」
とおっしゃる高橋さんからは、いつも目の前の人生を受け入れ、聡明に道を切り開いてこられた、美しく健気な実在のヒロインのような印象を受ける。
退職後も日本福音ルーテル協会を代表するご活動や、途上国の生活改善、女性の地位向上、子供の教育など、文字通り世界中で、重要な立場から数々の声を発してこられた。
そんな輝かしい経歴を持つ高橋さんだが、戦時中には母と弟を同時に亡くされるという非業を免れず、そのご経験から、現在は戦争防止、核兵器廃絶など、平和を訴える活動を続けておられる。
高橋さんのお話の中には、人種や歴史、国民性を超えて人々が繋がるためのヒントが見え隠れする。例えば戦争の傷跡から反日意識の強い国での講演のため、壇上に立たれた高橋さんの、機知に富んだエピソードがそうだ。
「私は壇上に上がってまず、"戦争で日本が酷いことをしてごめんなさい!"と謝ったんです。聴いてくれている人達の顔が一斉に笑顔に変りました。講演後はみんなで一緒に散歩したんですよ。」
そう言ってにっこりと微笑まれた高橋さんの笑顔は、どんな人の心も掴んでしまいそうなチャーミングな魅力に溢れていた。
高橋千夏さん手記 『 明治生れの回想 』
~父母の出生地~
年を重ねるままに昔の事は忘れゆく思いと、反対に八十年も九十年も前の記憶が妙に残っている私的な歴史を残したいという願いが常にあった。今までに小冊子や記事に残したものもあるが、孫からのご縁で、明治生れに何か聴きたいと云うお話があって心を引かれた。お目だるいとは思うが、お目通し下されば有難いことと思って、私の幼年から学生時代、就職、結婚から戦中戦後の思い出を忌憚なく書かせていただくことになった。
私は明治四十四年八月に東京で生れた。父はまだ封建的と云ってもよい明治十八年に信州下諏訪で生れ、蚕糸工場を営む旧家の厳格な家庭で育った。四人の姉があり末っ子の男子で、父は学業を目指して上京し理化学を学んだ。結婚し私が生れて二年後に、当時の農商務省から、米国のニュージャージィ州に在った高峰譲吉博士の研究室に出張を命ぜられ、四年間の米国生活となった。
母は明治二十五年に生れ、上諏訪であっても諏訪神宮上大社に近い金子という田舎で育った。私にとっては母方に三人の叔父と一人の叔母があった。父が外国で三年の研究後、一年間母と私を米国へ呼び寄せた五歳を過ぎる頃まで、私は母の里で祖父母の家で育った。豊かな自然に囲まれ、大家族とかかわって暮したことは、私にとってどんなに良かったかは計り知れない。
~祖父母との暮らし~
祖父母は早起きで、ご先祖様の仏壇に炊きたてのご飯を供えお線香をつけ毎朝拝んで、祖父は濃い緑茶と梅干を楽しみにしていた。堅実そのもので逞しい祖父は一日中畑に出ていて、米も野菜も自給自足の百姓さんだった。祖母は洗い場や囲炉裏端で忙しく過し、心温かく物分りのよいことは、子供心にも分かっていた。お蚕さまの季節には、客間を除いてどの部屋にも蚕棚が所せましと置かれ、時間毎に桑を適当に与える仕事は大忙しで母も姉さん被りにたすきがけだった。また私が小学生の頃盆に帰郷した時の思い出と重なるが、先祖を祀るお棚の用意が懐かしい。直衛叔父さまたちに連れられて神宮寺の裏山に登り、カンゾやのぎ、女郎花を取ってきてお棚を飾り、茄子や胡瓜をお供えした。遠くに八ヶ岳を望む縁先には南瓜や糸瓜が実ってぶら下がっていた。
母と米国行きが定まった時、上諏訪役場へ渡航手続きの為におじい様は(私はその様に呼んでいた)白い丈夫なちりめんの三尺帯私をおんぶして、二里以上も田舎道を歩いて街まで連れて行って下さった。私がまだ長距離は歩けないと思われたのだろう。
次の記憶は日本出発となり横浜港で大きな日本郵船に乗り込み下を見ると、突堤には紋付羽織袴でわざわざ長野県から貴男伯父さまが私達を見送りに来られたのであった。義理堅いと云うべきか、幼子の眼にも心にも鮮やかに残っている。
~アメリカでの思いで~
母は船酔いして気の毒だったが二十五日の航海の後に、シアトルで迎えて下さったのは蝶ネクタイに白スーツの洒落た父であったのに、私は知らない人に抱かれて、ワァーッと大声で泣いた。ニューヨーク迄大陸横断鉄道は五日かかった。給水の為に列車は大草原の真中で止り、黄金色に夕陽の沈む光景を見た。肩まで垂れていた私の髪はパッサリと切られおかっぱになり、米国製の服に変った。西洋文化に揉まれ、かなりの思想も開けた父は英語を話せない母に、鯨骨で出来たコルセットや当時流行の長スカートの美しいドレス等を買い求め着方や西洋のマナーなどを教えた。私にも幼女に必要なものを揃えて、子供の教育についても先輩からきいて来たりして、手間もかかり大変だったと思う。
母は日本が恋しくなった時もあると思うが、私は日本語が通じないと分って、だんだん英語が自然に這入って来て、遊び友達もふえた。一年足らずの滞在であったのに幼稚園に三、四ヶ月通ったり、教会の日曜学校にも誘われて数人の男女の子供たちと行き、帰りは道草を食ったこともよくあった。周囲が好意的であったことしか覚えていない。
~帰国後日本での娘時代~
父は私を日本娘にしたかったらしい。日本家屋に和服で住むと父は日本男子と云う本質が蘇ってきて、家庭では父家長主義となり特に母と娘に厳しい家の主人となった。約束の門限に遅れて帰宅するときびしく叱られて怖かった。小学生の頃何か悪いことをして私はよく罰として庭に立たされた。時間がたつと母のとりなしで、私は父の前で謝って、やっと許された。或時、何故立たされたのか理由を忘れてしまって、詰問されて「これからは、そういうことはいたしません」と答えたら、流石の父も苦笑したことがあった。
「嘘をついてはいけない」、「謝れば許す」という父の教育方針は正しかった。母は父に絶対服従だったが、時には涙をためていた。しかし、家計は大きな買い物は別として、すっかり母に任されていたのは進歩的だと思った。父はお酒がはいると上機嫌になって昔話に花が咲いたり、家族音楽会が始まった。父は「どどいつ」や「木曽節」。母は古い唱歌「空にさえずる鳥の声、峰より落つる瀧の音」と即妙に歌うのであった。昔気質と思うが民主的な空気も好む父に母はよく付いていった。私の弟妹はまだ幼かったので、私だけが胸に持っている家族団らんの映像である。その家屋も後に述べるが戦時に爆撃で壊滅した。
~農家の人々との思い出~
女学生の頃、お盆には家中でよく帰郷した。木曽路に汽車がさしかかると私の胸はわくわくしてきた。下諏訪で先祖の墓詣をすますと、母方の田舎で泊り行事を楽しんだ。祖母は「チナが来たで・・・」と言って大きな錠を下げて土蔵の戸を開け、餅米や小豆を出しに行き、もてなしのぼた餅を作る支度を始めた。集った連中が手伝って餅を搗き、手早やに餅を丸め餡をつけ大皿に盛り上げた。食べ切れないぼた餅はきれいに紫蘇(しそ)でくるんで大きな籠に入れて、涼しい裏座敷の縁側に吊した。ガスも水道もなくご飯はかまどで蒔をくべて炊いた。水は朝早く小川の水がきれいな間に汲んで来て台所のかめや桶に溜めた。食料も自給自足で、お米は一粒でも無駄にしては、目がつぶれるとたしなめられた。土を踏み緑の中で、良い空気を吸って暮らしていた。常には木綿の着物しか着ない質素な祖父母が、私の米国から帰国した際には紫ちりめんに紅梅模様の、両胸に赤い房の付いた被布をこしらえて待っていてくださった。その温情に胸が詰まってくる。
もう一つのエピソードを加えると、私が小学一年の時香炉園に住んでいたが、近くのお百姓さんが汲み取りに来ていた。年末には年中お世話になりましてと黒豆や野菜を持って来て、お礼を言い母と台所の裏口で話していたのを思い出す。お百姓さんは何と腰が低くて謙虚なことかと子供心にも残っている。今思うと里山や田畑を守るためには、万物の生きる循環を助ける習慣があった。今は身分の差などなくて良いが、水洗で流すだけで後は何も知らない。あんなに質素で恩を感じるなんて遠い昔の事となった。現代は経済発展に向かって自己の利益を追求している中に、大事なことを忘れてしまっている。これ程日本が戦後努力して発展したのは有難いが、過去の歴史を学び、日本人として、しっかり前進することが、学校教育だけでなく、社会人としても大切だと思う気になってきた。
~戦後の成り行き~
女子教育に先見の明があった学長の許で、戦前戦中に就職していた七年がある。当初は女子も国際的にも学びも仕事も出来ると思い、学業やスポーツ、趣味にも情熱を注いでいたが、それどころでは無くなってきた。日独伊同盟が消え、国際情勢もわからぬまま大東亜戦争の中にいた。異様な国情を察する術もなく大きな負担が国民にかかってきた。生活物資は次第に乏しく、「滅私奉公」とだけ教えられ、万歳の声に送られて若者の出生は日毎に増した。報道は統制され、アジア各地での苦闘や撃沈された軍艦、南方の死闘、生きて帰らぬ特攻隊などの知らせは、日時が経ってから知った。当時国には知者も賢者も居られたのに、どうして開戦に応じたのか分らない。「贅沢は敵」「産めよ殖やせよ」などの言葉を鵜呑みにして従った。どうして思い上がって戦争を起こしたいという悪魔が日本に取りついたのかよく分らない。
戦争末期には私も結婚していて二児の母となっていた。私達は芋の葉を食べ、薄い雑穀入りの粥をすすり、夫は裁判所へ出勤する際は炒り豆を弁当とし、国民服にゲートル姿であった。遂に昭和二十年六月七日、日本中を荒していた B29 の大編隊が大阪北部の豊中にも襲撃して、大量の爆撃弾をしらみつぶしに落として行った。私の実家の庭にも 1 トン爆弾が落されて、母と弟の家族ら四人が壕の中で爆死した。私は何の助けも出来ずに、大切な人々を無残に死なせてしまって、掘り出され筵に寝かされている大勢の犠牲者の中で、母の亡がらの横に立って茫然と涙するばかりだった。翌週には続くしつこい爆撃で、私達の住居も全焼してしまい、壕から出て見ると辺りは焼け野原となっていた。着の身着の儘で本当に衣食住を失ってしまった。すべて物は灰となり、ピアノの絃だけが残っていた。
~私の提言~
戦局は押し迫っていた時、広島と長崎に二回も、史上かつて無かった原子爆弾が落された。一瞬に上空から落すだけで、無数の人命や動物を殺し、街も自然も地獄となった。核兵器を使う戦争は悪魔の業である。残忍な姿でなくなられた方々や後遺症に苦しむ人に対して、どの様に詫び慰めてよいか分らない。戦場で消えた兵士たちと同じ尊い犠牲である。
更に伝え聞くところによると、終戦後にシベリア、満州、北朝鮮などから引き揚げて来られた同胞の生死をかけた苦悶の歴史がある。長期にわたる危険な道で、何万という人々が衣食住を略奪され、暴行、陵辱に怯えて歩き、遂に栄養失調、暴力、凍死などで亡くなられた方々も多いとのことである。この様な多くの犠牲者の霊や悲痛の運命を、どうお慰めしてよいかわからず今に至っている。
私が常々思っていた事を、晩年になってはっきり申し上げたい。現代の日本の発展と繁栄は先祖や兵士、戦争で犠牲となった方々が土台となっているお蔭であること、それらの膨大な反省すべき歴史を学んでこそ、明日があるのを知らなければならない事である。現代の若者に責任はないと云われ、役人は戦争の出来る国にしようとされたいかもしれないが、あれ程の大きな犠牲を払わなければ、日本国は立ち直れなかったのである。戦後は被害や苦痛、悲運は語らない傾向がつづき、語る人々も少なくなった。私は外国で日本の留学生が日本の起した戦争を知らないで恥をかいた実例を知っている。どうして学校で自国の近代史の事実をしっかり教えて、未来に備えないのだろうかと思う人々は多いと思う。
祖先を尊び、先祖の積み上げたご苦労を偲び、戦争を起さぬ様に努力するのが償いであり、先祖へのご恩返しになると思っている。学問や経済、政治も平和をつくり出す為に、最高の努力をすることが日本だけでなく世界の希望だと考えつづけている。