大阪府堺市に9人兄弟の8番目として生まれた。全員が男の兄弟だった。今、現在生きているのは自分だけ。10歳くらいの頃には、「バイ」という鉄で出来たコマで遊んだ。正月が終わって10日くらいに、「しめ縄」と「門松」を集めに回って、お宮さんに持っていって燃やした。
小学校だけ出て、12歳から3番目のお兄さんがしていた料理屋を手伝った。
朝早く魚を仕入れて、昼間に玉出・岸和田・新開地・天下茶屋なんかの中堅以上のサラリーマンの家に行商しに行った。夕方からは店に戻って、兄の手伝いをした。18歳くらいになると、兄は若い子を3~4人使っていた。
行商に行って売れ残ると、兄に叱られるが怖くてよく家を飛び出した。17歳ぐらいの時に初めて飛び出したが、20歳くらいになるとしょっちゅう飛び出すようになった。料理人としてのいっぱしの腕はあったから、簡単に他の店に奉公に入れるわけだ。だが、近所の目にも勝手が悪いから、と、なだめられてすぐに連れ戻された。またすぐに飛び出してしまったけどね。
兄弟は9人とも全部、男。1番上の兄が「漁師」、2番目は「軍事工場の鉄工所」、3番目が自分と一緒にしていた「料理屋」、4番目は「やすり研ぎの鍛冶屋」、5番目は銀行を辞めて「理髪店」、6番目は「魚の行商」、7番目は「軍事工場」、8番目が自分で、9番目が「散髪屋」。9番目の弟だけが戦争に召集された。
他は誰も戦争に行ってないのは、軍事工場で働いていたり、仕事以外で警報団等に入って戦争に携わっていたからだ。自分も32歳くらいで警報団に入り、警備の副部長をしていた。警報団は、空襲警報や毒ガス隊や焼夷弾を落とされると、その位置や情報などを高い台から町会全てに知らせていた。
24歳の時に恋愛で結婚した。今まで結婚は4~5回している。妻は自分は3人目と思ってるようだけど、おまえが知らんだけや。見合いは1回だけ経験がある。以前の奥さんは他界していて、子供は、一度目の結婚の時だけ2人出来たが、長女は15歳の時、長男は一昨年62歳で亡くなった。
27歳からは、ずうっと戦争が続いていた。だが、食べる物を扱う商売だったので「食うに困る」ことはなかった。食べるのに不自由している多くの人々は、着物と米を交換したり、重い荷物を背負って列車で米を買い出しに行ったりしていた。
37歳の時、例に漏れず自分の自宅も丸焼けになってしまった。その時の事をはっきりと覚えていて、おもしろいんやけどな。店をしている業者には配給があり、酒や米が入った。「ちょっと一杯やろう、皆うちに来い。」と言って、いい気分で飲んでいた。大分飲んでから、夜中の2時頃だったろうか・・・突然、警戒警報が鳴った。空襲だ。皆を避難させて、自分ひとりだけ残った。家の主人だから、逃げるわけにはいかない。何とか助かったかな?と思ったら、隣の家が炎に包まれながら燃え落ちた。こっちまで燃え移ってきたので、消そうとしてバケツの水をかけたが、そんなものではらちがあかない。仕方ないので「ええい、ほっといたれ!」と、自宅が焼け落ちるのを見ていた。あれは末期の酒だったのか、と思ったが死ななかった。その時死んでも、ちょっとも不思議じゃなかった。ひとつ間違ったら確実に死んでいた。午前4時頃に「警報解除」になったので、西成区役所の屋上の環視場に昇って、警防団として皆に「避難するように」と伝えた。 住む家がなくなったけど、その頃はなんぼでも空屋があったから、いくらでも住むところはあった。
38歳くらいの歳に戦争が終わって、周囲一帯焼け野原で何も出来なかった。商売しようにも材料もないし、客も来ない。けれども、知恵を絞って「店頭販売」の許可を取り、売れる物を探して売っていた。個人ではダメだっただろうが、組合で申請すれば許可がおりたのだ。
しばらくしてようやく何とか店を改築して、料理屋を再開できた。板前一筋だったから、他に何も考えられなかった。そして、その頃大阪では初めてだった、「ふぐ料理の店」を西成ではじめた。神戸にはその前からふぐの店があったが、大阪では初めて。料理屋としても、飲み屋としてもよく流行った。商売は良かったが、逆に「たおれ」(=貸し倒れ)も相当多かった。
13年間西成で店をした後、今住んでいる心斎橋に支店を出した。今は廃業してしまったそごうのえらいさん(重役)は、みんな常連客だった。今はさすがに引退されてしまったが・・・。
昭和58年まで、心斎橋で料理屋をしていた。終戦後から続いていた店も不景気になり、「社用族」が利用しなくなって、主要な客が全て来られなくなるのと同時に店もたたんだ。戦前・戦中・戦後と料理屋一筋に続けてきたが、「老舗」「昔ながらの料理屋」と言われるお店は、見事なくらいこの周辺(心斎橋界隈)から姿を消した。一件も残っていないだろう。
結局、小学校上がってから74歳の年まで、料理人としての人生を送った。
多趣味で、10年ごとに内容は変わったのだが、嫁が「きちがい」と言うくらいにとことんのめり込む性格だった。少し余裕が出来たからだろうか、40歳から「熱帯魚」に夢中になり、ちょっと珍しい熱帯魚を見つけると片っ端から買い込んだ。その当時で一匹、数千円する熱帯魚を、山のように買ってきては飼っていた。
次は「カメラ」。徹底的に高価なカメラや8ミリを買いまくり、自宅に暗室まで作った。
その次は「盆栽」。特に「サツキ」と「サボテン」に凝って、家の屋上に建てた温室を、自分の好きな盆栽だらけにした。店の玄関や店内にも飾っていた。何千万円も費やしていたから、セキュリティは万全にしていた。あまりに見事な盆栽だったから万国博覧会の時に、日本庭園に貸してくれないか、という話もあった。
74歳で仕事を引退してからは、特に何もしていない。今年の8月に腰を痛めてからは車椅子の生活で、家で寝ていることも多くなったが、それまではしっかり歩けてた。病院の先生もまた治りますよと言うてくれた。
今は大きな趣味は卒業して、浪曲・長唄・小唄・民謡などの音楽を聴くのが好き。嫁は「ジャズ」が好きで、全然趣味が合わん。
私の店、「松月」は、高級料理屋で、社用族も重役クラスばかりだし、歌舞伎役者さん達もよく利用されていた。芸人さんでは、西川きよしさんもよくご家族できていただいた。
「歌舞伎の世界に来てくれないか」とよく誘われた。当時は「高田浩吉」「長谷川一男」「片岡弐左右衛門」なんかに似ていると評判だったらしい。「飲む・打つ・買う」のうち、賭事(打つ)だけはしてこなかった。料理人はよう金持たん。
こんな年までまさか自分が生きていると思わなかった。今はもう楽しみなんて何もない、死ぬのが楽しみや。