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明治生まれの人、約一世紀(100年)を生きてこられた人の言葉を今、伝え残したい。これから先、人生を生きていく私たちにとっての良きバイブルになり得ると感じます。

古き良き時代「明治」を伝え残したい

明治の人ご紹介 第4回 来間 隆平さん

私は自分の信念をずっと通してきたから
それでもういつ死んでも幸せだと
思っています

来間 隆平さん

明治44年1月25日生まれ 石川県能登半島出身 岐阜県在住

昔、能登半島は2つの国から出来ていた。半分が加賀の国、もう半分が能登の国。私は能登の国に生まれた。父は先祖代々15代続いた医者だった。生まれてすぐに亡くなったので、私は母を知らない。父も8歳の時に亡くなったので、ほとんど両親を知らずに育った。田舎の医者だったから夜は往診で遅くまで帰らなかったし、朝は私が学校で早いから、父と顔を合わす機会もとても少なかった。
だから私は、ほとんど祖母に育てられた。幼少時代は、薄幸だった。

子供の頃は冬は竹馬、夏は近所の用水場の池で水泳をして遊んだ。
県立七尾中学校を経て東京へ行き、中央大学の予科から本科に進んで法学部に入った。中学卒業後、通常ならば第四高等学校に入るのだが、数学の成績が悪かったため落第した。本当は医学部に進むはずだったが、そのせいで医学部へ行けなかった。けれども記憶力が抜群に良かったので、中央大学で法律を学ぶことにした。
大学は当時も4年制だったが、3年生の在学中に高等試験、つまり司法科試験を受け見事合格した。合格者は弁護士・判事・検事、そして、法務官のいずれかになる。私は、地方裁判所の判事になる希望を出した。
昭和6年くらいから支那事変がだんだんと広がり、日本の陸軍が大幅に拡張された。各軍に司令部があり、それぞれに軍法会議がある。軍法会議というのは地方裁判所の変形のため、法務官が必要だった。毎年、法務官試験に合格するのは全国でたったの300名あまり、その内、判事・検事・弁護士が大部分で法務官になる人は非常に少なかった。個人の希望など聞いてもらえず、強制的に軍に取られてしまう。私も例に漏れず、志願したわけではないのに、軍法会議法務官にさせられた。

最初に配属されたのが東京の第一師団、次に仙台の第二師団、青森は弘前の第八師団、関東軍満州国、金沢の第九師団と転々とさせられた。
昭和6年に大東亜戦争が勃発。日本はパールハーバーでアメリカをやっつけ、最初は非常に調子が良かった。南方へ転任したら、赤道直下の国、ボルネオにやられた。その後ソ連との国境の北朝鮮・第十九師団、法務部長をさせられた。34歳、陸軍法務少佐という階級だった。

大東亜戦争で日本は負けて終戦を迎え、やむなく日本に帰ってきた。ポツダム宣言によって、ソ連軍に降伏したものはシベリアで、アメリカ軍に降伏した者はアメリカの捕虜になった。私はソ連に捕まり、5年間捕虜として抑留された。シベリアは零下35度、寒いなんて言うもんじゃあない。ソ連もドイツとの戦争が長かったから、食料があまりない。食料は必要量の半分しか与えてもらえず、空腹を感じながらも過酷な重労働の日々を送った。
労働は木の伐採。機械なんてないから、全てのこぎりで木を切っていた。「日本に帰らせてやるから」と騙され、次に連れてこられたのが満州。撫順というところだった。そこは畑を耕すように石炭が採れる、世界でも珍しい産地だった。そこにある「刑務所」に、満州にいた時に中国人を迫害した、という無実の罪で、6年間入れられた。
シベリアに5年、中国に6年。戦争に負けてから11年間、敵国に抑留されていた。
戦争に負けたのは34歳の時、日本に帰れたのが45歳の9月5日。

私には妻と3人の子供が居た。6歳の長男、3歳の長女、生後6ヶ月の次男。妻は戦争が始まった時、北朝鮮にいた。当時30歳だった妻は子供を連れて、そこから何百キロもの道のりを、命からがら逃げてきた。アメリカの占領地に入り、そこから日本へ無事帰されて敗戦後は日本にいた。当時、私とは文通が出来なかったから、てっきり戦死したと思っていたらしい。だから11年後に、私がひょっこりと帰ってきて、びっくりしたらしい。

日本に帰ってきたら、何か仕事をやらなきゃならない。でも当時既に45歳。自分の郷里である金沢の地方裁判所を希望したら、そのまま聞き入れられ、4年間判事として働いた。そのうち法務大臣から呼び出しが掛かり、岐阜に行ってみないか?と言われた。「是非このまま金沢に置いて欲しい」と言ったが、1年だけ行ってこいと言われて受けた。岐阜については、飛騨の高山を知っていたくらいだった。昭和34年12月26日、家族揃って岐阜に到着した。

岐阜では判事を、結局4年間やった。4年で辞めた理由は、退職金で娘の結婚費用を作る為だった。長期間抑留されていたから、貯金が一銭もなかった。当時赤ん坊だったり、小さかった子供達は、大きくなって学費も必要だった。家内はそれこそ食うや食わずで育ててくれていたが、なにせお金がない。定年は65歳だから未だ13年勤められたが、その退職金でささやかな娘の結婚式をあげてやることが出来た。
判事を辞めて、出来る仕事は弁護士しかなかった。岐阜で弁護士をはじめたが、岐阜ではほとんど知人がいなかった。裁判所や検察庁、警察の人達には、仕事の関係で交流もあったが、弁護士のお客にはなってはくれない。生活出来なきゃ頼み込んで、判事に戻してもらえばいいと思っていた。
ところが、これがもーのすごく流行った。お金がこうも簡単に稼げるものかと思うほど、お客がやって来た。お客はほとんど「暴力団」。判事をやっていた時は、暴力団を裁判するのが専門だった。暴力団からすると、私の存在はすごく怖い。それが辞めて弁護士になったのだから。「先生、あんたは昔、暴力団を痛めつける判事だったが、今度は弁護してかわいがってくれる弁護士になってくれ」と言われた。その頃、柳ヶ瀬は毎晩ピストルの音が絶えなかった。
400年前の関ヶ原の戦いで、西と東の勢力が衝突する。そういう気性の荒い土地柄だ。だから暴力団も非常に多かった。少々荒っぽいが金払いがきれいだった。負けてくれ等とは一切言わない。今頃の暴力団は内容が変わってしまった。昔は皆、短刀かピストルを持っていたけれど、最近のは頭でやるからかえって悪質になった。
たちまち、お金が貯まった。この家屋敷は岐阜の中では一番高いとされる所だが、100坪の家屋敷をたった4年で買うことが出来た。とにかく便利だし、とても静かだ。裁判所まで歩いて7分、市役所は1分、警察署は5分。柳ヶ瀬の繁華街も10分、岐阜駅は20分、立派な庭も造った。桃・八重桜・梅・松の木など、良い木を入れてある。

妻は18年前に病気で亡くなった。とても優しい、素晴らしい妻だった。学校の成績も抜群に良かった。いとこ同士の結婚だった。
子供達も立派に成長してくれた。長男は私と同じように司法試験を通り、判事から弁護士へ。長女は教員だったが、辞めて今は専業主婦。次男は今57歳で、日本経済新聞の取締役になってくれている。次男は私が転勤が多かったから、4つ目の中学校には3年生の3学期しか行っていない。不憫な想いをさせたが、大した出世をしている。

孫は全部で7人、曾孫は3人いて、時々遊びに来てくれる。
私には母親の違う兄弟がいましたが、二人とも50代で亡くなった。男兄弟は医者、女性は医者のお嫁さんになっていた・・・。

今の生活は、月曜日から土曜日まで、うちで20年間務めてくれている事務員さんが、朝8時から夕方5時まで来てくれる。日・祝はこの広い家に1人。趣味は読書と旅行。小説はたくさん読む。あまり仕事はしない。温泉も大好きだが、足が少し不自由になったのと、耳が少し遠くなったので最近はあまり行っていない。若いときからたばこを吸うが、酒はやらなかったからか、今でもとても健康。元気でしょ。

人生の中で一番嬉しかったのは、大学在学中に司法試験に合格したこと。一番辛かったのは戦争に負けて11年間抑留されたこと。日本に帰れる保証もなく、「絶対に帰してやらない」と言われていて、人生の見通しが全く経たなかったから。
  ソ連から共産党になれと言われたが、私の性格上、なるとは言えなかったから余計に風当たりがきつかった。共産党は崩壊すると思っていましたから、そう言っていた。共産党は駄目だし、うまくいくわけがないと思っていた。現に潰れたでしょ・・・。

自分の信念を91年間通してきましたから、いつ死んでも幸せだと思ってる。悔いはありません。親は知らずに育ちましたがね・・・。

取材後記

今回、事務員の女性の方から「相当気難しい方だからよろしくお願いしますね」と言われ、正直少しびびりながらの初対面でした。
でも、昔話をお伺いしていく中で終始ご機嫌はよろしく、同じ人間なのだから、心配する方がおかしかったと反省しました。
取材の最後には、富有柿か桃を送ってあげるから、と、何度も私の住所を聞き返され、帰りのタクシーチケットまで持たせて下さり、とても親切にしていただきました。
その一部始終をお聞きになられた事務員さんは、とても驚かれている様子で、「相当気に入られましたね」とおっしゃって下さいました。もしかして異例の出来事なのだったのだろうか・・・?
私は本当におじいさん、おばあさんが大好きだから、それが伝わったのかも知れません。
でも、本当はきっと昔話というのはお年を召した方を元気にする様な気がしています。
懐かしい気持ちが甦るから・・・?
今回の来間様も本当は少しお寂しいんじゃないかなと思いました。そうお伺いすると「寂しくはない」とはおっしゃってましたが・・・。
お一人暮らしには変わりないのですから・・・。
岐阜に行く機会があったら、またひょっこり遊びに行かせていただこうかなあ、と思いながら、2時間に渡る取材を終えました。

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