高木 辰三さん
明治37年5月5日生まれ(本当は1月29日生まれ)
東京都出身 大阪府松原市在住
明治37年5月5日生まれです。ただし、それは戸籍上のことで、実際に生まれたのは1月29日です。1月29日は日が悪いからと、両親が勝手に、一番良さそうな日に変えて登録したそうです。昔はそんなふうで、のんびりしたものでした。。。
生まれは東京の南千十というところ。両親は貧乏していたので貧乏長屋といわれたようなところで育ちました。兄弟はなく、一人っ子。妹がいましたが、早くに亡くなりました。
尋常小学校を出た後、高等科に1年だけ行きました。その後、働きながら商業学級の夜学に3年間行ってました。
子供の頃は、荒川(=隅田川)でよく遊んだ、と言うより暴れまくっていたから、2回くらい死にそうになりました。仮死状態になって家に運ばれたとき、母親がニンニクをまるごと飲ませてくれて、なんとか水をはき出させてくれました。
大水になると蛇が流れてくるから、それを捕まえて遊んでいました。蛇はしっぽをつかむとだらーんとして、無抵抗になるんです。夏休みの日記は、悪友と31日に、朝から晩までかかって仕上げていました。両親が共働きでいないから、家はいつも悪友のたまり場になっていた。遊ぶことばかり好きで、ガキ大将みたいなことばかりやっていました。
学校を出てからは、「津村順天堂」に入りました。その時、社長にえらく気に入られ、ご自宅まで引っ張り込まれて、玄関番や、ある時は車の助手席に乗せられて、一緒に会社に行かされたりもした。腕時計をもらったこともあります。その時計は、壊れて動かなくなっているけれど今も大切に持っています。それが、16、17歳のときのことです。
津村順天堂は当時、貿易をしていました。中国に「東亜公使」という支店があり、間もなくそこに行かさました。色んな物を輸入して、中国で販売しました。仁丹の代理店になったり、五金=金物や雑貨や、愛知県で造ったはた織り機なんかを手広く販売していた。
1200海里も先にある、重慶にも売りに行きました。揚子江近くにある街で、大きな船がそこまで行けたんです。増水期は4000トンの船が行き来できましたが、減水期は1500トンしか行き来できません。運賃の採算ベースに乗る増水期にはどんどん商品を買って商売ができますが、減水期は大きな商売は出来なかった。だから1年分を、増水期の半年くらいでやってしまうという商いでした。運搬の途中に川が渦巻くところがあり、そこに入ると船が止まり、しばらくするとまた動き出す。「山峡の剣」という場所があったりして、おもしろかった。言葉は上海語を話していました。今、中国に行っても話せると思う。上海語は力があったから何処でも通じた。けれど奥地や田舎に行くと、北京語しか通じなかった。社長にかわいがられていたので、その頃は会社のお目付け役のようなものでした。
33歳でツムラを辞めて、独立して貿易の仕事を始めました。南京と蛮風の2箇所に、雑貨などの輸入店を持ちました。上海で物を買って、南京や蛮風で売っていました。支那語が良く分かる日本人がいる、といううわさで、日本人に良く売れました。日本や上海のものが、本当に良く売れ、3代も4代でも一生遊んで暮らせるくらい儲けました。陸軍の南京出張所に、当時で一台18万円の飛行機を、8台分も献金した。日本にも時々帰ってきて、家内や子供を連れ、日本国中旅行をして歩きました。
妻との結婚は25歳のときです。奈良の桜井というところで、妻の親代わりの方の前で、あわただしく式を挙げました。中国に帰れば儲かるのに、のんびり結婚式なんてやってられない、という状況でした。18の時、妻が上海に遊びに来て知り合いました。子供は6人、男3人女3人授かりました。
戦争が起こり、日本が強い間は商売も出来ましたが、戦争に負けた途端、店も財産も持ち帰れず、命だけは助けてやる、と無一文で追い出されてしまいました。嫁と子供と夜具だけ持たせてもらい、博多に上陸させられました。同じような境遇の人が、先を案じて沢山自殺しました。お金を隠し持っていた人もいたかもしれません。が、その人は子供のない人でした。見つかったら子供の命もないだろうから、怖くて真似できませんでした。無一文で、5人の子供を抱えて上陸した時の、何ともいえない気持ちは今も忘れられません。
途方に暮れていると、3日後に政府が3000円くれました。その後食事の配給もあり、ようやく「あわ」を食べさせてもらいました。
親戚を頼って奈良の桜井に1ヶ月くらいお世話になり、その後金沢の父の所に帰ってきました。引揚者戦災者寮で、新しい生活が始まりました。債権が出てきたので、それで一息つくことができました。親戚や近所に食べ物などをもらって急場をしのぎ、少し落ち着くと、日本全国で闇屋の商売を始めました。引き揚げ者の証文を持っていると汽車が全国ただになるので、駅で寝泊りしながら、米や薬を売って歩いて生活を支えました。金沢は戦争で焼けなかったから、田舎でいろんな物を見つけては、大阪の焼け野原へ売りに行くと良く売れました。今も忘れないのは、「サントニ」という虫下しの薬が、10万円で売れたことがありました。今なら100万円くらいの価値でしょうか?何もない時代だから、何でも高く売れました。あるところから仕入れて、ないところに売りに走れば商売は成り立つわけだ。そしてようやく家族が食べていけるようになった。
「いかにしたら生き抜けるか」しか考えてなかったから、趣味だの遊びだの、一切考える余地がありませんでした。あらゆることをして、とにかく生き抜いてきたといった感じ。根っから商売は好きで、今だって儲ける自信はあります。子供が多かったからきつかったときがあったが、高校はもちろん、その上の大学まで出した子もいます。40歳で中国から引き揚げてきて、50歳までの10年間、それは苦労したものです。
50歳くらいからは健康維持のために、毎日自己流の体操を続けています。2時間のときもあるし、1時間のときもある。朝3時に起きてすることもあるが、必ず毎日欠かさず続けている。体が資本だから・・・今はもう歳で働けなくなったから、体を健全にしておかなきゃ・・・。儲けていても儲けていなくても、体操は必ず毎日1時間は続けています。85歳くらいまでは、現役で仕事を続けてきました。娘と一緒に暮らし始めると、就職活動して仕事を見つけ、バリバリ働いていました。
90歳過ぎてからもご近所の方とオーストリアへ行ったり、今でも孫の結婚式などに出席するために、一人で東京でも金沢でも行きます。時々脱線するから怒られます。ついでにふらふらと旅行気分で足を伸ばし、家族に怒られます。
人生で一番うれしかった事、一番悲しかった事は、戦争で勝ったときと負けたとき。戦争で負けたときほど、悲しかった事はありません。
戦争のとき、アメリカにいた日本人と中国にいた日本人で、大きく明暗が分かれたのは、アメリカは財産などを全て後で送ってくれたけれど、中国は丸裸で追い出されました。アメリカに行っていた近所の方の家は、日本で大豪邸に住んでいます。
昨日のことをくよくよしたり悲しんでも何にも始まらないもの、それより先のことをどうするか、何ができるか考えて行動するほうがいいもの。私だって裸で上陸させられて一文無しでしょ、そのときの寂しさっていうのは身にしみてますものね。何が出来るか、日本はどんな状態か、考えて効率よく動かないと、やみくもに何かをすればいいって事じゃないけどね、、、自分の目の付けようによって商売は左右される。知人も私を真似て薬売りをしようとしたが、あなたには売れないと断られたとこぼしていらしいです。商売人は人を見るからねぇ、、、。
取材後記
お孫さんからお伺いする辰三さんは、「いつも前向きでプラス思考で、くよくよしない性格。また、人のために尽くすことを常に考えている、やさしい面もある尊敬できる人です」との事。困っている人を見るとほっておけないから援助したり、応援したくなる性格だそうです。
今からでもきっかけでもあれば、新たに商売をはじめて成功しそうな勢いだ。とてもやさしい目をされて、つやつやしたお顔をされている辰三さんが、実年齢よりお若く見える意味が分かった気がした。
お商売が大好き。前向きで、心身共に健康な辰三さんに、沢山の事を教えていただいた。