熱田 政子さん
明治40年8月1日生まれ 東京葛飾生まれ 大阪府八尾市在住
私は、小学校の教員をしていた父清之助、母親はんの長女として明治40年8月1日に東京の葛飾区金町で生まれました。近所に同年齢の子供がいなくて、いつも一人遊びをしていたので後年の一人暮らしも気になりませんでした。その後、次々と弟や妹が生まれましてね、、、二つ違いの妹と四つ違いの弟が産まれ、弟が生まれました年に父親が北海道室蘭市にある日本製鋼所附属青年学校の教員になり北海道の社宅に移り住みました。ただ、私だけは東京の叔母に預けられその後には千葉の祖母に預けられました。ここでも周囲に子供は居なかったので一人で竹薮や椿の花等で遊んでいた記憶が有ります。
私は小学校入学の際に父親が迎えに来てくれて親の元で暮らせるようになりました。その年には妹が生まれいつの間にか妹3人弟3人と私と両親の9人家族になっていました。ただ、本当は女6人男3人の9人兄弟でしたが赤ちゃんの時に2人亡くなったので7人兄弟でした。
母親は朝早くから夜遅くまで靴下、足袋などの縫い物をいつもしていました。私も長女なので子守、洗濯、足袋の繕い等よく手伝いました。弟で長男の正もとても親孝行で家族思いで弟が室蘭高校 3 年のときに誰に相談することも無く勝手に退学して夜学に通い昼間は電気会社に勤めて家計を助けてくれていた。冬には一番早く起きて家族の為に薪のストーブを焚いて部屋を暖めておいてくれたこと等を思い出します。父親がずっと肺を患っていたこともあり、家族全員が助け合い、特に兄弟で上の者は親代わりとしての勤めを自然にこなしいたような気がしますね。日曜日には家族みんなで山登り、海水浴などしてとても楽しかった思い出があります。このように7歳から21歳までを北海道の大自然の中で暮らしたことは私の生涯の素晴らしい経験として残っています。
北海道で生徳尋常小学校に入り徒歩15分程度の道を仲良しの友達と通いました。冬は雪が多くて外での雪合戦等の遊びが懐かしいです。教室内では薪ストーブで暖かかったです。1クラスは50人程度で男女別学でした。毎朝先生が出席を取りながら一人ひとりの顔を確認してくれるのが生徒の安心になっていたように思います。小学校の低学年の時には朝ごはんを 3 杯も食べました。具沢山の味噌汁に漬物のおかずでした。おやつはさつまいもかトウモロコシのふかしたもの。甘いお菓子は母親が禁止し南部煎餅くらいしか食べたことがありませんでした。 3 年生くらいになると小学校からの帰ると友達と野草(たんぽぽ、げんのしょうこ、よめな、かたくり、ぜんまい等)を採りに、海辺にはあさり、うに、昆布、岩のりを採りに行きました。母が喜んで手を加えて食卓に上るのが嬉しかった。小学校高学年になると妹達を連れて山にグミやヤマブドウを摘みにも行きました。このころ社宅から母恋町に引っ越しました。 5.6 月ごろになるとスズランが辺り一面に咲き、いい匂いがする原野の中を歩くのが大好きでした。毎朝、あばあさんの納豆売りがやってきて桶に入れた豆腐を天秤棒でかついで売りに来ていました。両親は子供を叱ったことが無く、なごやかな家庭でみんな健康、貧しくとも心豊かに過ごしていましたねぇ。私は子守やおむつの洗濯で勉強をする時間は殆ど無かったので卒業時、成績はビリに近く高等小学校にもう一年行くことを父が薦めましたので放課後暗くなるまで学校に残って受験勉強をしました。室蘭の神戸製鋼所は終業のサイレンが鳴ると一斉に職工さん達が門から出てきて道にあふれ皆とても活気がありまじめでした。工場には外国人が沢山いました。「とっかりしょ」という灯台のある場所にきれいな景色をよく観に来ていた姿を覚えています。社宅には湧き水を汲む井戸があり周囲を土手に囲まれさくらのトンネルが出来ました。妹を養女にというお話もありましたが、いくら貧しくとも子供を手放すということはありませんでした。 ただ、一房のバナナが買えなくて妹のうちの一人は「バナナ、バナナ」と言い残しながら亡くなりました。
大正 11 年 15 歳の時に北海道庁立室蘭高等女学校に入学しました。室蘭には女学校は一つしかありませんでした。袴をはいて 50 分の道のりを歩いて通いました。お琴を習いました。スポーツは不得意で体は大きいのだけれどかけっこはいつもビリでした。弟達はスキー・スケートが得意でよくやっていましたが私は一切しませんでした。朗らかさはこの大自然の生活の中からもらい、弟妹を育てることで和が自分に備わったように思います。
大正 14 年、 18 歳で卒業して同校の補習科に通い小学校本科正教員の免状を頂きました。 19 歳になり父すすめで行儀見習いを兼ねて父の知人の家に女中奉公に出ましたが一年経たないうちに帰ってきてしまいました。そして二十歳になった年の 12 月に東京葛飾区、水元尋常高等小学校に就職して訓導となりました。その頃は就職が難しく東大や一流大学出でも代用教員が多かったのです。就職祝いに父親が腕時計を買ってくれました。その頃の男女の賃金差は 5 円でした。三枝さん、清水さんという同僚の方々と共同生活しました。月給の半分は貯金することが出来ましたので後に弟が結核にかかったときに援助することが出来ました。初めて教壇に立ったときには足がぶるぶる震えました。ピアノの練習があまりできず歌も私はうまくありませんでしたが音楽の授業は楽しく、たびたび音楽会で優勝しました。歌はもちろん、生徒の態度が良いのがとても評価されました。大勢の弟妹の中で育ったので子供が好きで生徒たちの人気者になっていました。
ただ、体育は相変わらず苦手で跳び箱が跳べず、男子受け持ちの石井先生が男女共同の時間割にしてくださり助けていただきました。その頃私は石井先生に想いを寄せるようになりましたが廊下で出会っても恥ずかしくてトイレに逃げ込んでました。教員同士が恋愛する環境など無く諦めていました。退職時には石井先生からコスモスが描かれた色紙をいただき、その時私が想いを寄せていたことをご存知だったことを知りました。
昭和 7 年私が 25 歳の時に兵庫県神戸市御影に転居しました。東芝に勤めておりました弟が関西の会社に変わることになり家族も一緒に移り住みました。父母、妹二人、弟二人との生活でした。私は失業しましたので三宮の口入れ屋らにいったところ危うく遊郭に送られそうになりました。次の年の 12 月に和歌山県田辺第一小学校の教員になれました。その頃、 26 歳の時ですね、結婚を申し込まれていた男性と弟と三人で池でボートに乗りに行きましたところ、その男性がボートを漕ぐのを弟と代わろうとして立ち上がったところ、ボートが転覆してしまいました。私は水の中に沈んで行く意識の中で「もはや私の人生はこれまでか・・・。」と考えてましたら弟が助けに来てくれました。私を助けた後にその男性を助けようとしたらしいのですが、とき既に遅しで結婚を約束していた男性はその事故で亡くなりました。私が一生涯独身を貫き通しましたのは、女の操をその方に捧げる為だったのかも知れませんね。今では考えられないことでしょうけれどもね、、、。
その後 29 歳の時に大阪市港区の軍需工場、帝国精鋼株式会社監査部に勤務し夜は工場内の青年学校で家庭科を教えました。学生を連れて信貴山での修養に良く出かけました。御影から通えなくて北区のYWCAの寮に入りました。中路牧師に出会い北海道で馴染みがあったこともあり、キリスト教の教会に通うようになりました。そして 31 歳の 4 月 3 日洗礼を受けました。勤労の生活を送ることを決意し以後 78 歳に至るまで働き続けました。
その後 37 歳で大阪市立結婚相談所に勤務するようになりました。女にとって結婚は大事なことと思っていたので懸命に仕事に励みましたが上司のいじめにあい、ありもしない悪評を流され辞めざるを得なくなりました。その後、大阪市民生局婦人部長に指名され勤務しました。
昭和 20 年私が 38 歳のとき 6 月 1 日に大阪大空襲で西扇町の家が全焼しましたので東淀川淡路の信者仲間の家に逃れました。その後、弟晋の家に身を寄せました。その年の 12 月大阪女性文化の会が発足しました。
40 歳で大阪女性文化の会の会長となりました。北区の市民会館の中にあり戦災で焼けなかった建物でした。準備委員会を十回ほど開催し、メンバーは牧師、後の府立大学長、各区からの代表 1 名ずつで成り立ってました。みんな自身の向上のために集まってくるので嬉しくてよく働いたが役所の人は役所の仕事ではなく手当が出ないから手伝ってはくれませんでした。色々な部活動がありました。当時は娯楽もなければ場所も無かった為大勢の人が集まりました。例えばコーラス部・・・NHKの作曲家内田元先生が指揮をしてくださいました。電気が無いのでローソクに火を灯し楽譜を読みました。後にバンドを組む人も現れ音楽で救われた人が沢山居たことを後に知りました。アイビーの会、つたの会として今も存続しています。聖書講義・・・役所で聖書を取り上げることに反対があったが人間形成に必要と民生局長が後押しをしてくれました。教養部・・・各種講義、源氏物語等。他にダンス部や洋裁部もありました。わずかな会費や寄付金を講師の謝礼にさせていただきました。会の仕事のほかに結婚、就職、母子寮の世話等もしたので忙しかったです。まじめにやっていれば見ていてくださる人が居る。後になって評価されることが多かったように思います。この頃、現在地の戦災者、引揚者用住宅に当たって両親、妹と共に引っ越しました。大阪女性文化の会での友人・知人との関係が今も続いています。
46 歳で大阪女性文化の会の会長を辞任しました。そして大阪市港福祉事務所勤務となりました。 51 歳で社会福祉主事となります。 57 歳のときに社会福祉事務所を定年退職しまして直ぐに社会福祉法人大阪児童福祉事業協会指導員となりました。 59 歳で福祉謡曲同好会に参加するようになります。 62 歳の時に指導員を退職し大阪氏退職者謡曲同好会に出席するようになりました。 9 月準学校法人日本予備校に勤務するようになる。経理全てを任され 75 歳のときに理事に就任しましたが経営者の兄弟げんかが元で予備校がつぶれました。後に再建され再就職しました。その年に母親が亡くなりました。母親は病知らずの健康体であったが昭和 25 年交通事故に遭って大腿骨骨折の重傷でそれから 3 年間くらい数度の手術、 3 年間ギプスをはめたままの生活はさぞかし苦しかったこととよく辛抱したと思う。病に耐えてようやく退院することが出来た時の父と妹の喜びよう、その笑顔は今もまぶたに浮かんでくるほどだ。その後は元気になり毎月 21 日には聖天様に御詠歌の奉仕に行っていた母は毎朝私が勤めに出るとき手を振って見送ってくれていた。その母が昭和 57 年いつものように手を振って送ってくれたのに勤め先の予備校に着くなり電話が入り突然母が倒れたという。直ぐに入院することになりその後は 6 人の子供達が代わり代わりに看病して数日後に孫が見舞いに来た際にきれいな声で「荒城の月」を歌った母を皆で、忘れないで覚えていたんだねぇと話していた。その夜、疲れてはいけないと弟だけ残して皆帰ったが翌朝弟にヤクルトを飲ませてもらい「ああおいしかった。」と息を引き取った。 93 歳でした。母は常に新鮮な心で感謝して一生を過ごした人でしたので幸せだったと思いますよ。
76 歳で私は謡曲が好きで個人的にも習い始めるようになりました。 78 歳で予備校を退職しました。 87 歳からは生涯学習センターの「八尾文章クラブ」に通い始めまして 10 年間続けて通っていましたら、 10 年前から通い続けているのは淋しいことに私一人になってしまっていました。 最初は 40 人も居ましたのに・・・。私は毎日がとても忙しくあっという間に月日が過ぎて行く感じです。謡曲と文章クラブに通い、教会への礼拝は殆ど毎週出席し、毎日散歩を欠かすことなくしています。又人に会うことも大好きなことの一つですし。そして、週に 2 回のデイサービスに通い週に 3 回ヘルパーさんに来ていただいています。誰かの講演で昔「日本人は何事も三日坊主で駄目だ。よくも悪くも三日では分からない。辞めるのはたやすいが続けて行くことが大事だ。」と聞きそれからはやりかけたことは続けることを心がけ遠くてもがんばって通い続けたりしてるんですよ。あっはっは。それから私は「ドクダミ摘み」をもうずっと長くしていましてね。ドクダミが日陰で花穂に黄色い小花をつける 6 月ごろこれをせっせと摘んできては部屋いっぱいに広げ、乾燥させて友人・知人の方々にお配りしています。それももう何年も続けていますね。きっと北海道で青春時代を過ごした中で仲良しの友人と毎日通った野草摘みの楽しさが今も心に残っているからかも知れませんね。食べるものは何でも好きですね。毎朝バナナを必ず 1 本食べています。又、サツマイモをトースターで焼いて食べるのも好きですね。それと、お茶を毎日飲んでいます。戦時中は食べ物があまり無かった時代でしたが苦労と感じることはありませんでしたね。周囲が皆そうでしたからねぇ。
私は今までの人生を結婚せずに通ってきましたから私が一番嬉しいことは甥や姪が皆、結婚してくれたことですかねぇ。
今、時々思いますのは「昔のような時代が来ればどんなにいいだろうと思います。もうあんな時代は来ないのでしょうね、、、。人と人との心からのつながりがあったような時代だったような気がします。心と心のつながり、真から心のふれあいをしたらそこには必ず「平和」があると思いますよ。
備考・・・熱田さんは 2006 年 8 月 1 日のお誕生日に「百歳、私のてくてく人生」という随筆集を出版されていました。
その本に詳しい人生の記録が記されています。そして、その本の出版をお祝いして沢山のご友人、知人の方々のメッセージが最後に収められていましたが、その内容を読ませていただくにつけ、熱田様のお人柄がいかに素晴らしいかが伝わってきました。
「人に好かれる」という人生を歩んでこられた方だということ、天真爛漫で豪快な笑顔のたえない方だということ、一人で一世紀もの年月を生きてこられたという気丈夫さを併せ持つ不思議な人であること、、、そんな風に記されていました。
そしてインタビューの際に付き添っていて下さった教会のお仲間で岡田様とおっしゃる方も同じように「熱田さんは、皆が元気をもらいに挨拶にやって来られるんですよ。次から次へと熱田さんを慕って来られる方がいらっしゃいますでしょ。
お人善し過ぎて心配になるくらいな事もあります。母が生きていたら丁度、熱田さんの年齢だから私も他人事には思えなくてね、、、。」と身内のように親身になられている方でした。