古川 欽一さん
明治45年7月16日生まれ 京都府出身 大阪府枚方市在住
「もともと私は京都で生まれたんですわ。兄が二人、姉が一人いましてな、私は四人兄姉の末っ子として生まれたんです。若い時は『おまえは若いから、若いから』と言われ続けましたけどね、今はもう、両親も兄弟も(他界して)一人もおりませんわ。今は私が(周りで)一番年上ですわ。」そうおっしゃって古川さんは長年刻まれた自身の人生を回顧し始めてくださいました。
多くのひ孫を持つ古川さんは「家内に倒れられたら私はどないしようもない。私が死んでも、おまえは元気でいてくれよ。」が口癖の奥さんをこよなく愛しておられる様子の九十七歳です。傍で一緒に聞いていてくださった奥様は、にこやかにそれはそれはとても上品な面持ちの大正生まれの奥様でいらっしゃいました。又、古川さんは奥様の次に愛しておられるのでは ? というほどの無類のゴルフ好きでもいらっしゃることを傍でご一緒くださった息子さん ( 末っ子の ) にお伺いしました。
90歳過ぎるまで現役でゴルフを楽しまれていた古川さん、大阪では一番と名高い名門ゴルフ場である茨木カントリーの昔ながらのメンバーさんであり、息子さんのお話からは子供の頃から親父が日曜日に家に居ることがあると「どないしたんや ? どっか具合でも悪いんかな ? 」というくらいゴルフ三昧されていたそうです。
今は最近になり脳梗塞で倒れられてから腰から右半身にかけて不自由はあるものの、今なお元気で長生きを楽しむ古川さんのマイペースな人生は周囲からも「総じて運がいい、良い人生やったんと違うかなー ? 」ということでお話をお伺いしました。
「父と母は洋服店の商売をしてたんですわ。私は小学校まで京都に居てましたが、小学校卒業と共に大阪に行ったんです。小学生の頃の思い出ですか?そうですなぁ。勉強はあんまり好きや無いでしたしな。」
小学生時代の思い出で今もよく覚えている『パンの話』というのがあってね、大正七年前後のことでしたかなぁ、、、 私の母親がお寺参りが好きでね。日曜になったら京都の智恩院に坊さんの説教を聞きに行くんですわ。その帰りに円山公園でね、パンと牛乳の朝飯を食べるのが習慣でね。それが子供心に私は楽しみで楽しみで、母親にようついて行きました。
京都に居たのは十数年、その後、大阪に八十年近く住み続けていいますが、自分は京都人や。といい続けています。
まだ大正(時代)やった頃、大阪の会社を定年退職したら、母親と一緒に京都に住むのがずっと夢やったんですわ。・・でもね、ある時こんなことがあったんです。二月にね、知人に招待されて京都の上等な料理屋の『やまと屋』でご馳走になって、一晩泊まったことがあったんです。その時に、京都は寒うて、寒うて。朝の九時になっても空は青いのに日が射さんのです。なんでここ(京都)は日が射さんのや?と不思議がって聞いたら、私が泊まった場所は東山の麓やったでしょ。(盆地やから)お日さんが真上に来るまでは日が射さんのですわ。
その頃は暖房器具なんて無かった頃でしたからね。大きな火鉢を持って来て、味噌汁炊いて食べさせてもらったんです。・・・それでも体が寒いんだ。寒うて、寒うて、全然暖まらんのです。その時に寒いのはどうもならん、京都住むのは止めやと言って止めにしましたんや。
それから小学校卒業と同時に大阪に移り住み、中学に進学しました。大正十三年のことでした。
大阪市が大阪市立東商業学校を創った年に、私は(中学に)入学しました。中学の時にやってたスポーツは水泳ですなぁ。四年生の時にね、大阪府中等学校の水泳大会に選手で出てねぇ。予選を通って、四百メートルの決勝までいったんですわ、決勝ではベタ(最下位)やったんで優勝はもちろん逃したんですけどね。(笑)そうしたらね、学校に帰って来たら(周りの級友達が)「おまえは学校の恥や!」と言うわけですよ。私はね、「そんなことあるかい!決勝に残るということは、大阪府が全国に残ったということやで。決勝に残るだけでも大したもんやで!」と言い返してやりました。出場した時が四年生やったでしょ。五年生で出場してたら、もう少しええ成績を出せたかも知れへんけどね。(笑)
今でこそ、どの中学校にも備わっている五十メートルプールもその頃の関西には、「宝塚」と「市丘(いちおか)」の二箇所の中学にしか設備がありませんでした。
それから宝塚の少女歌劇に夢中になったのもこの頃だったように思いますねぇ。今で言う有名な「宝塚歌劇」のことですがねぇ、、、。
学校の鞄持ったまま、鞄隠して小遣い持ってよう通ったもんや。その時は宝塚の遊園地に入園するに五十銭と、歌劇見るのに五十銭の二回分、払わなあかんかった。五十銭でしたんや。今はいくらするんですかねぇ、、、 ?
学校出てから就職活動しました。昭和初期くらいかな。
その頃は『海外雄飛の時代』言いましてな。今では考えられへん。中等学校を卒業したら海外で働け!そこに行け!と言われましたわ。当時、台湾・樺太・朝鮮は日本の領土だったでしょ。満州では日本のお札が流通しているし。パスポートも必要ないから、国内を旅行するようにそこで働け、そこに行け!と言われたんですわ。その中で私は一番遠いジャワ島のスラバヤにある三菱商事の子会社の大橋商店に就職したんですわ。友人達も皆、海外に働きに出てましたわ。
ジャワ島にあった大橋商店は、日本・フランス・アメリカへ米やトウモロコシ、豆を輸出する会社でした。朝になると、仕事仲間のインドネシア人や中国人達と共に港に出向き、船からの積荷の積み卸し作業をしました。
「現地ではマレー語で会話してました。職場はインドネシア人や中国人ばかりで日本人は一人もおりません。そやから一緒に昼ご飯食べたり、倉庫で顔合わせるうちに自然とマレー語が話せるようになったんですわ。今でもマレー語は体から抜けません。ものの三ヶ月もしたらオランダ語まで話せるようになりまっせ。」
ジャワ島に居たのは、兵隊検査のある二十歳まででした。
ジャワ島はそりゃええ国やからね、もう一遍戻りたいと思いますよ。旦那さんの仕事についてジャワ島に行った奥さんなんて天国やったと思います。現地(ジャワ島)の女中さんは使いたい放題でしょ。上げ膳、据え膳で、お昼にテニスしてる位で他にやることが無いくらいですからねぇ。今の商社の奥さん達と同じ感じなのかな ?
その後、兵隊検査のために一度日本に帰国したらそのまま兵役に取られてしまいましてね。ジャワ島から日本に戻ってからの人生は、戦争の一色でしたわ。今となってはね、思い出話で話せますけどね。この悲壮さは戦地に行った人じゃないと解りませんわ。当然、命の保証も無ければね。嫁さんの腹に子がいるのに、いつ日本に帰れるか、何にも分からない状態での出兵ですからねぇ。
最初に召集されたのは昭和八年。私は東京の近衛に入りました。それから昭和十一年まで満州事変、昭和十二年から十四年までをシナ事変、昭和十六年からの第二次世界大戦には二度、出兵と撤兵を繰り返しました。
実に四回、召集されましたわ。四回も召集されるなんて珍しいんですわ。本当にねぇ。
その中でも、不思議な因縁を感じた戦争体験がありましてね、
昭和十六年から第二次世界大戦が始まったでしょ。その時、たまたま、私が所属する部隊がジャワ島に上陸しよったんですわ。当然のように、部隊の中に現地のマレー語を話せる日本人はいなかったもんですから、(唯一、現地語を話せる私は)そりゃようモテましたで(笑)。日本人と現地の人がお互いに話したいけど、それぞれの言葉の分からん、そんな状態でしょ?私一人が日本語もマレー語も分かりましたからね・・・あっちからもこっちからも(通訳に重宝されて)来い、来い言われてモテた、モテた。
シナ事変が終戦した昭和十四年には、一端日本に帰国できました。その翌年に結婚しました。そして直ぐに新しい家族が出来たんですがね、そんなことはお構いも無く(第二次世界大戦の)戦地に赴かねばならなくなりました。そんな時の気持ちなんて、そういう経験した人じゃなかったら分かりませんわ、、、。
(出兵する)昭和二十年の三月は大阪が空襲に遭ってた頃でしょ。(大阪にある)宮川の土手から空襲が見えたんですわ。最初はプツンと何かが光って、そこから火の粉がパラパラパラパラと雨みたいに降って来たと思ったら、みるみるうちに炎が街の端から端まで広がって、えらい火の粉ですわ。辺り一面、焼け野原になりましたわ。今でもあの光景は目に浮かびます。そんな時に家内と長男、長女、そして家内のお腹にいる子を残して戦場へ行くんですよ。いつ戦死するかも分からへん。ましてや、残された家族に手当てもない。こんな酷いことはありませんで。
そして昭和二十年、第二次世界大戦は終戦を迎えましたが、私の居る部隊はソウルに居ました。部隊はチンタオから鉄道で、朝鮮(韓国)へ戻って来てたんですわ。戻ってきて『何か様子がおかしいぞ』と二、三日留まっておったら終戦になったんですわ。
その後、うちの部隊の将校が朝鮮軍に「今後、私達の部隊はどないしたらよろしいか?」と聞きに行きよったんですわ。そしたら「勝手にせぇ!」と言われたんです。これが良かった。だから私達は帰還することができたんです。
中には終戦の情報が入らず、戦争が終わってから朝鮮(韓国)に乗り込んで行って人質に取られた不運な部隊も沢山ありました。それでもね、帰りの道中は難儀しましたでぇ。
私らの部隊は、毛布や服、米等の物資を大量に積んだ自動車に乗って帰国を目指したんですがね、その道中で通行税を目当てにした部落の人間が道に電柱を横たえて何度か足止めをくわせたから、なかなか順調には前に進めませんでした。通られへんから、車から降りまっしゃろ?そうすると村の人間が「通行税を寄こせ!」と言ってくる。お金なんかあらへんからね、(毛布)五枚でどうや?と掛け合うと「よっしゃ。」ということで(車のガラスに)「通行許可証」という紙をペタッと貼ってくれる。あれ嬉や、これで通れると思うて次の村に行くとね。「そんな許可書は別の村のもんや。ここを通り過ぎるにはここの通行税を払え。」とこうですわ。そんな交渉に二時間も三時間も掛かるですよ。参りましたわ、、、。
そんな按配なんで部隊は四日か五日掛かってようやく釜山までたどり着きました。やっと着いたと思ったら、街の中には既にアメリカ軍が居てね、「街には入るな、郊外で止まっておれ」と言われまして、困り果てました。
暫くしたらね、逆にアメリカ軍の方から命令が来よったんです。「日本の軍隊は釜山に来い」ちゅうてね。
その命令を聞いて、部隊内では様々な憶測が飛び交いました。
「行ったら殺される」と言う者もおりました。「何かに使われ」と言う者もおりましたわ。どないしよう、という中で(部隊で一番偉い)うちの将校は、街の中へよう行かんのです。そしたら将校が「古川、おまえ、言葉喋れるから行って来い」と言うんですわ。「ちょっとぐらいの英語なら話せるから、そんならワシ行ってくるわ。」ということで、私は兵隊五十人を連れて自動車で行きよったんですわ。
それでね、(不安一杯で)行ったらアメリカ軍は「桟橋が汚いから、掃除せぇ!」と言いよりましたんですわ。それで、私ら日本兵は沢山の掃除道具を持ってきて桟橋の掃除をやりましたわ。そんな姿を見た朝鮮(韓国)人達は「今まで偉そうにしていた日本人が、アメリカ軍にこき使われて桟橋の掃除をしている。」と言って笑いよりました。
掃除し終わった私達に、アメリカ軍は「掃除、終わったか?」と聞いてきたんです。そこでアメリカはんのええ所は「掃除が終わったんやったら船に乗って帰れ!」と言ってくれたんですわ。アメリカ軍と接触するのが嫌やと言うてる奴はまだ郊外に居たんです。そやけどそんなん呼びにいったら又道中何が起こるか保証も無いし、呼びに行かないまま大阪・淡路島帰りの「天女丸」いう、手を伸ばせば水面に届く程の底の浅い小さな船にみんなで乗り込みましたわ。みんな、「日本に帰れる!」言うて喜びましたわ。
そうして私ら一行は天女丸で、太平洋を突っ切って日本の博多を目指しました。博多に着くまでの海には機雷がぎょうさん浮かんどりました。「お椀(機雷)が浮いとるさかい危ない、こっちの海路で行こう」と路を選んでいるうちに、博多通りすぎてとうとう舞鶴まで行ってしもうたんやわ。それで私達は、舞鶴に上陸したんですわ。
みんな必死で船に乗っているから、便所も行かれへんのです。乗ったら乗ったきりや。一昼夜かかってやっと帰ってきたんです。ほんま、よう転覆せんと帰って来れたわ。(船の中で)「やっぱり、アメリカ軍は日本軍と違うな。」というてました。もし日本軍がアメリカ軍の立場やったら、捕虜に取るかして、掃除終わったら帰国させるなんてこんな事、さしよらへんよ。・・・・ほんまに運が良かったんわ、、、と仲間と言い合いました。
その時の大きな心残りが一つありましてね、実はその時、軍隊手帳やら行動を記した日誌を全部持ってたんですわ。でも、こんなもの持ってるのが知れたら戦争犯罪人になる恐れがあると脅かされて、木箱に全部詰めて、釜山の港に沈めてしまったんですわ。あれだけは今でもあったらと・・・残念で仕方ありませんわ。
それからね、あの有名な「南京大虐殺」については色々といわれてますがね、日本の戦場区域となったほとんどに関わった経験を持つ者の現地での生の声というのは世間で言われているものとは違うんです。南京大虐殺があったのは、昭和十二年十二月です。私が南京を通ったのが翌月の三月終わり。その時に南京の兵隊に聞いた話はね、「南京大虐殺は確かにあった」ということです。しかしね、何故あったかというとね、無碍に人を殺した訳や無いんです。あいつら(敵軍=中国人)を殺さないと、自分らが殺されるから殺したんですわ。・・というのはね、中国人は上海で戦争に負けて南京に逃げ込んで来てたでしょ。南京に入った日本人は現地にいる中国人を民間人やと思ってる訳ですよ。中国人はそこを狙って、日本人をポンと銃殺したわけですわ。しかも、日本人の下手な所は将校と兵隊の服の色が違うんですわ。だから中国人からすれば、兵隊の位の偉い日本人が分かる訳で、その人間だけを選んで撃つわけです。でも日本軍から見れば、どの中国人が兵隊で、どいつが民間人かが分からん訳やわな。そやから皆殺しして揚子江に沈めてしまえ、と・・・そういう話を私は、南京の兵隊から聞きました。
私の戦友は殆ど亡くなってます。何で亡くなったかと聞かれるとね、ほとんどが「船」ですわ。戦場での戦死よりも、敵軍の潜水艦に狙われた船が海に沈んだ為に死ぬ人間の方がはるかに多かったんです。私は沈没する船を二回も見ました。戦地に向かう船は海軍が守ってくれるから、意気揚々として向かうことができるんです。ところが帰国する船は、「おまえら勝手に帰れ!」ってなもんで、誰も守ってくれへん。しかも何艘かが一列に連なって帰るわけですけども、一番速力の遅い船に合わせて進むんです。そこを敵軍にドーンとやられる。しかも一艘目は大抵狙われへん。標的にされるのは二艘目か、三艘目ですわ・・・やられた船は暫くはそこに浮いています。それがだんだんと舳先を残して沈んでいくんですわ。それを私らは『南無阿弥陀仏・・南無阿弥陀仏・・』言うて拝みよったんです。・・でも中にはボートに飛び乗って助けに行きよる勇敢な戦友も見ました。
それから、戦争の思い出でもう一つ、シンガポールでの戦争の最中に日本人は椰子の木で鳥居を設け、昭南神社を作ったんですわ。 それは 日本人が参拝するためだけに作ったんならええんや。すやけど日本人は現地のシンガポール人をその神社に無理矢理連れていって拝むのを強制させよったんです。わしら日本人が有り難いんやから、おまえらも有り難かろう・・日本人の勝手な奢りですわな。私はどうもあればっかりはな、そんなことしたらあかんなとつくづく思うたわ。
そこには戦争によって領土だけで無く、現地の人の思想までもを屈服させようとする日本人の傲慢さがあったように思う、それが私にはどうしても許せませんでした。
終戦後、大阪に戻ってからは親父がしていた繊維関係の会社に入って働きました。兄二人も一緒に働いていました。私は最初は四条畷の工場で工場長をしていました。元々は軍服を作る為の工場でしたが戦後は小学校の制服なんかを作っていました。比較的政府やら役所に信用のある会社だったんですね。毎日寝屋川の自宅から四条畷まで自転車で通いました。行きは登りの坂道ばかりで30分くらいかかりましたが帰りは下り坂で20分程度でした。週に一度は本社のある大阪まで行きましたが1時間かかりました。途中で腹が減るのでよく覚えています。当時の自転車のゴムは程度が良くなかったので直ぐに駄目になるのでゴムチューブを変えてもらうところもちゃんと決めていてゴムチューブはいつも持つようにしてましたわ。
それから昭和23年くらいかな ? 政府がお金を変更する際に「今日からお札は一切使えませんよ。」ということをされました。預金は出来るけれど引き出すのに制限が掛けられて、、、。サラリーマンは良かったが商売人はそれはそれは困り果てたものでした。仕入れをするにも新しいお金が無いわけですからねぇ。仕入れられないのです。そういう状況ですからインフレが強くなりだんだんと物がなくなってきて物の価格がどんどん上がってねぇ、、、。お金は有るけれど物がないという時代でした。
工場長をした後は、貿易関係をしました。アメリカへブラウス作って輸出してたんですがね、その時びっくりしたのはアメリカの発注の仕方ですわ。日本ならサイズごとに一枚か二枚か、、、サイズを色々と混ぜて注文有りましたけどアメリカは1ダース単位で買ってくれます。驚きました。ずっと親父の会社で働きましたがとうとう最後は54歳くらいのときかな ? 社長になりましたわ。二人の兄も居ましたが一人は54歳で、もう一人は89歳で他界してました。それから70歳くらいまで社長して、私が社長を私の兄 ( 長男 ) の息子に譲りました。70歳の社長から40歳くらいの社長に代わるわけですわな。そこで大変やったのが古くから居る年寄りを皆辞めさせないといけなかったことですわ。私含めて7人も年寄り居ましたからなぁ。その年寄り辞めてもらうのに退職金が何億も必要になったけれど、そんなんいっぺんに払てしもうたら会社が持ちまへんがな。統制経済でずっと苦労も共にしてきた人達を無碍に辞めさせるわけにもいかしまへんやろ。そやし中央税務署 ( 当時は東税務署 ) に掛け合いにいって退職金を仮払いにはしておくが月賦で払わせてほしいとお願いしに行きましたんや。そしたら税務署の当時の担当の課長さんが出てきて「こういう問題は船場の会社にはしょっちゅうあります。あんた、誰にも言わへんか ? 」言われて「そんなんいいまっかいなーっ。」言うて、何年払いにしてほしいんやと言われて6人やから6年というと「そんなんあかん、3年や。」言われまして、中とって5年にしてもらいました。
それから辞めてもらった人らの再就職先を方々当たって全部世話しました。その時に初めて分かったのが一番役に立たんと思っていた経理マンが一番先に売れましてね、その次に売れたのが総務担当でしたんや。一番売れへんかったんが一番稼いでくれていた営業マンやったんですわ。よその営業で癖付いているような人いらん、、、言われましてね。驚きでしたわ。その後、会社辞めさせてからも経理と総務の二人は5年10年20年と、、、中元と歳暮を贈り続けてきよりました。とうとう死ぬまで贈ってきました。わしが酒が好きなの知ってたから辞めてからもしょっちゅう家にも来てましたなぁ。
昭和24年くらいからなんで38歳くらいの時からゴルフに明け暮れてましたなぁ。実に九十二歳まで打ち続け、当時ゴルフ場を持たなかった青森県と岩手県以外、全国のゴルフ場をまわりました。ゴルフが人生みたいなもんやったかなぁ、、、。時代と共にゴルフ場に来る仲間の職も様変わりしてましたな。始めた頃は私みたいに繊維関係の会社の人や商社マンや銀行マンが多かったけれど、、、時代と共に医者や不動産関係や色々と入れ替わりましたなぁ。その代わり子供の運動会とか授業参観とかそんなもん一度も行った事がありませんでしたなぁ、その代わり母親が一生懸命行ってやってましたなぁ。
茨木カントリーがホームコースやったんですが、いつも手ぶらでいきよりました。服も道具も春夏秋冬分全部置いてあったし、行けば受付で「この人見たらこの人と同じ組で組んで、、、。」と「頼むわ。」と一言いうたら全部段取りしてくれましたからなぁ。いつも同じような顔ぶれでまわってましたなぁ、、、。