佐々木 フチさん
明治44年3月20日生まれ 西宮市上大市在住
インタビューは、平成 20 年 4 月 17 日、同居の娘様の家(西宮市上大市 5 丁目)で朝 10 時半からおよそ 1 時間半行われた。娘様とご近所にお住まいのお孫様も同席されたが、途中でお孫様はお子様を幼稚園へお迎えのため席をたたれた。そのお孫様のコメント通り「ひ孫と合わせて女4代仲良く」すごされている。
佐々木フチ様のプロファイル:
明治 44 年 3 月 20 日に 鹿児島県姶良郡 で 7 人兄弟の 6 番目として誕生された。昭和 10 年 25 歳のときにご結婚、 7 人のお子様を育てられた (うち一人は幼少時に死亡) 。ご主人が結核を患われたので、炭焼きや行商をして家族の生計を支えた。93歳まで 鹿児島県 でひとり住まいをされていたので、関西に引っ越されたのは4年前である。今も、漢字、クイズ、ことわざ、熟語などに興味がおありで新聞を読むのを日課とされている。 【あらゆる種類のスポーツをテレビで観ることを楽しみとし、特にプロ野球・高校野球はデータを覚え、熱を入れて応援している。】 また、ご本人曰く「感謝するのみ」を信条に日々をすごされている。「小さいことでも、たとえ 1 センチでも人の喜ぶことをしてからしゃばにおさらばしたい」とおっしゃったのが非常に印象的であった。
<女 3 人で農業をして自給自足>
お話はこんな言葉で始まりました。「やっぱりこんなに長く生きておればね、一生の間には面白いこと不快なこといろいろあります。」お生まれは「 鹿児島県姶良郡 栗の町米永...はあちょっと田舎ですね。町から 1 里余りあるところ。農家です。みんな農家」。お誕生日をお尋ねすると「明治 44 年 3 月 20 日」「農業専門にやりましたです」と、きっぱりとおっしゃいました。
16 のときに父が亡くなりましたから、それから女 3 人でね。農業をして、 自給自足みたいなふうで。姉がですね、いっぺん結婚しましたけど、ちょっと病気になってね、離縁せられてそれからずっとうちにおりましたです。長男はもう分家してね。私たちは『隠居』みたいにしておりました。 もう、やっぱり農家は難儀をしますから。男の子ら力持ちの仕事ですからね。その頃は機械がなんにもないしね、もう自分の体でやっていきましたから。
<バトンの継ぎ方なども繊細に詳しく勉強するもんでした>
フチさんの学校生活でのトピックは二つありました。高等小学校で短距離の選手として走ったことと中等公民学校へ通学できたことでした。「お勉強が好きだった。やっぱり字とは親しみがね...」とおっしゃるフチさんですが、実はリレーの選手だったそうです。
その頃に連合運動会というてね、隣の村と連合して大運動会がありよったです。そのときに選手で出てね。私は短距離でしたからね。バトンの継ぎ方なども繊細に詳しく勉強するもんでした。それは非常に先生がやかましくいうてね。時間的に躊躇せんように順調にいくように継がにゃいかん。そりゃ難しいもんでした。 6 年まででした。高等小学校に来たらもう、顔見知りでしょう。スポーツの選手でね、リレーで、「あんたも選手じゃったなあ」って。そん時にはもう体が肥えてきてね。だめでした。ほか分校の人たちが優秀でしたなあ。それで、スポーツの走るのはあきらめました。
明治から昭和戦前期の学校制度では、多くの人は尋常小学校(義務教育)で 6 年間、次に高等小学校で 2 年間学習しました。ただ、「男子は 3 年がありましたけど」といわれるように男女間の差はあったようです。フチさん自身はさらに、家から歩いて 1 時間 10 分かかる、衆目「憧れの」中等公民学校へ進まれましたが、 2 年制のところを 1 年で断念されました。「もう 1 年出たかったけどねえ」と述懐されています。
その町内で補修学校というて、 1 級上の学校がありましたもん。それが中等公民学校というて 2 年制でしたから。それにも 1 年間出ました。 裁縫科と中等科があって。...高級なものばっかり、布団とか、男物の袴、 2 枚重ね、和服では高級なものばっかりやったもん。それに材料が続かなかったですもん。もうそういう材料がそろえられんかった。その頃はね、袴を着て、下からこう、裾 12 センチくらい(のところに白線があって、そのことを蛇腹)蛇腹をつけているもんじゃから、すぐ一目でわかるんですわ。その学校にみなあこがれてね、みんなあれに出たいなあ出たいなあって羨望の的でした。財政がやっぱり農家はきつかったですからねえ、...。町で女学校へ行った人 3 人、優秀でお金持ちの財産もちの人が女学校へ行った。それだけ少ないもんでした。
<私が一番ひがんだのは器量がまずいことで...>
フチさんが結婚されたのは 25 歳のときで当時では比較的遅い結婚。フチさんは「もうこんな器量が悪いからみんな好まんかったんでしょう」と言われましたが、実は和歌山の紡績工場で働いていたお姉さんが結核を患われて、その方の看病に行かれたことも遅い結婚の一因ではないかと娘様が説明してくださいました。フチさんは 7 人兄弟の下から 2 番目だそうで、一番上のお姉さんはたいそう別嬪で順調にご家庭を築かれたそうです。
あんまり兄弟が多いもんだから、気のきいた兄なんかね、海軍に 2 人行きました。それが全部勉強してね、恩給つけて帰ってきました。海軍でも 勉強して学校に行かんかったら恩給はつきませんもんな。...その学校に行って普通科と学校卒業したらここにつばがつくんですわ。...つばのある帽子、 3 等兵曹 2 等兵曹、つばがつくようになったらいつ退職しても恩給がつくんですよ。すぐ上の兄なんかね、学力なんかあんまりなかったけどな、上官の機嫌取りが上手だったから...。
大正時代か昭和初期、独身だったフチさんは整形手術のことに興味を持たれたそうで、正直これにはたいへん驚きました。当時、劣悪な紡績工場での労働で結核を病む人はたくさんおられたそうで、本当に「野麦峠」の世界だと娘様が教えてくださいました。フチさんは、命がけで肺病のお姉さんの看病をされました。
7 人のうちで私が一番器量がまずいんですわ。ほんとまずいです。鼻もこんなね、団子鼻でね。...私が一番ひがんだのは器量がまずいことで...。 (結核になった)上のお姉さんは別嬪さん。...鼻が一番安いそうですわ。 あれやったら私やったらできるかなあ。整形の鼻がね一番安くて 20 万でできる。いいなあって思ったよ。...姉さんの看病に行きましたもんですからね。姉をひとり置いて帰られなかったですもん。見捨てられなかったですもん。自分も肺病(感染して)で死ぬんだなあって思っておりましたもん。...もう、紡績に行ったら年中綿のごみがしてなあ。結核にうつる人が多かったもん。引き取って家にかえってなあ。会社で死にたくないというてねえ。親の人たちが呼んで家に帰ったら、兄弟 2 ・ 3 人やられとったです。伝染してね。...(自分は器量が悪いから)自分の何でもやられることは自分で努力して負けないという気がありました。器量はもうどうすることもできないけど...やっぱりそういう負けない気があったから、今でもこうだらだら長生きしているんでしょう。
さて、頑丈で負けん気の強いフチさんが生きられた青春時代は大正デモクラシーを想起させてくれます。
その頃はね、あのう、もう、独身が非常に推奨されていました。頭のいい人はですよ。女の人は自分は独身で暮らそうかといって雑誌などにそういう風潮が...職業婦人がね、えらい頭の人は産婆学校にいってなあ。 議長なんかした人はなあ。主席だったもんなあ。あたしたちの頃はまだ男子 7 歳にして席を同じうすべからず。男でも女でも卒業して優秀な頭の人は役場に努めておりました。そのころ月給が 1000 円でしたもん。... 1000 円では暮らされなかった。でもその頃に役場に勤めていた人は、今頃もう退職金をもらってね。退職金が 2000 万。非常にええもんじゃ言うてね 市民が嫉妬心起こしてねえ。...でも、月給がたった 1000 円 でしたから、その頃はみな喜びはせんかったですわ。たった 1000 円 くらいで暮らせるもんかということでしたからね...。
<伝染するから町におられんから山の上に上がって炭焼きをしておった>
フチさんが結婚されたのは昭和 11 年。農家においては「 1 年間働いて自給自足でやっと 1 年間食べるものをつくりだしたらいい」という時代だったそうですが、ご主人の家業は羽振りのよい樟脳の製造販売業でした。九州の山のくすのきを買ってチップにして蒸留する。 1 回の出荷で大きな現金収入を得ていました。お金持ちでしたが、一切田畑を買わないで山から山へ転々とした生活をされていたそうです。
農家は一年中苦労してわずかなお金。あのひとたち(ご主人側)は農家はきつかなあとわろうておりましたよ。
ご主人は「九州でナンバー1」の仕事師だったそうですが、ところが結婚後すぐ兵隊で満州に行かれ、 3 年ほどで「結核」を患ったため帰国されました。その後、 5 年間は療養生活を余儀なくされました。
腹膜と結核を患って除隊になって帰ってきましたわ。第 1 線、広東上陸の第 1 線に立ったんですわ。... 5 年間、労力はもう 5 年間何にもせんかったですわ。そのとき、なんもかんも全部売ってしもうて食べるのに困った。
それで、「伝染するから町におられんから山に上がって炭焼きを」始められました。それはもうたいへんな重労働をされたそうですが、末の娘様が学校に上がられるときに山を下りて行商を始められました。自転車もなかった当時、箱や袋に食料品を詰めて背中に背負って雪の日も売り歩かれたそうです。
あらゆる難儀労力をしましたからね。頭で何か商売でもしようかと思ったら上品な高級なあれでなければいけなかったからね。原料を仕入れるか金がなかったからね。 8 人の家族が明日の食う米に苦しんでおればもう、手っ取り早い食料品でなかったら...資本はないし家族の人数は多いし、てっとりばやく朝晩の食料品、行商でなければ...
<満州をとればね 30 年は食料に困らん...>
1921 年(大正 10 年)ワシントン会議において、「主力艦保有比率を日本は当初、対英米七割を主張したが入れられず、対英米六割とすること」が決められました。そのことを今もよく記憶されています。また、近年、七夕の飾りに「世界平和」と書かれたそうです。これらのことは、フチさんの問題意識の高さの現われではないでしょうか。
世界に負けないような頭で、私たちの頃は破竹の勢いで行きよったですわ。満州をとればね 30 年は食料に困らんという時期でしたな。 もう学校の教育からがそういう風じゃったもんな。553でね。アメリカが 5 イギリスが 5 日本が 3 。軍艦をね。 5 : 5 : 3 の比で作れというてね。...でもう、戦争があるときにはしょうゆの5合くらいなのをねえ配給をもらいに行きよったですわ。貧乏でしたよ。日本国中ねえ。もう一口に言うてねえ戦争、争うということは絶対にしないということで。 戦争、人と人とでも個人同士でも争わない、と。争っていいことは何んにもありません。国と国とも戦争していいことはないですからね。
<子どもが歯噛みをするから 私もきばったんですわー>
役場の人が「あんたもそんなに苦しければ(町から)補助をもらいなさい」と勧めてくれたそうです。でも、フチさんは頑として補助を受けることはしませんでした。とにかく、「貧乏じゃったよー」とおっしゃるフチさんの世代は、「明日の米」に難儀された方々が国中に大勢おられたのでしょう。その中でも、「力持ちで、仕事は速いし、男勝り」のフチさんは自立心が強く、どんな状況の中でも「ぼうっとしたり泣いたりしない」で貧乏と戦われたのだと思われます。そして、その源泉はやはり、子どもたちへの深い愛情であったと推察されます。相当に山上憶良の詩に共感されておられるからこそ、インタビューの間に何度か「白金も黄金も珠もなにせんにまされる宝子にしかめやも」と憶良の詩を引かれて、その心を表現されたのだろうと思われます。
子ども(たち)が学校でやっぱり主席でしたから、上の方から何番と... 町から援助をもらったら私ら学校へでられん。真ん中の兄貴が一番賢かった。成績がよかった。...兄貴が学校で肩身が狭いからねえ。子どもが歯噛みをするから私もきばったんですわー。その頃はね、援助をもらう人は少なかったもんですから。今はね悠々ともらっていいそうですね。今の世の中はね。そういう風に聞いたよ。
「子どもが丁寧にしてくれるから感謝しております」と言われるフチさんは現在、娘様と住まわれており、一週間に一度、デイサービスを利用されておられます。
戦争で苦労したけれども、今、現代の人たちがよーくしてくれるからね。ありがとうと感謝それだけです。ありがとうという言葉は尊い言葉ですわねえ。...デイケアにいけばね。ご馳走がありますからねえ。...ささいなことであってもありがとうといわれたら邪険なことはできませんもんね。人の喜ぶことをしてしゃばにさよならしたいなあと考えます。喜ぶということは金にも換えがたい...。
最後になりましたが、貴重な人生の経験をお話いただいたことに心から感謝申し上げます。どうぞ、お健やかにお過ごしくださいませ。誠にありがとうございました。