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明治生まれの人、約一世紀(100年)を生きてこられた人の言葉を今、伝え残したい。これから先、人生を生きていく私たちにとっての良きバイブルになり得ると感じます。

古き良き時代「明治」を伝え残したい

明治の人ご紹介 第25回 中野 トシエさん

毎日洗濯物たたみしてるよ。
働かねと体あんべ悪くなるもんや。
これからも体動く限り、働くよ。

中野 トシエさん

明治44年11月15日生まれ 岩手県出身 岩手県北上市在住

- はじめに -
取材日は、お天気がよく、風のきもちいいい日でした。敬愛園は、芝生や木々や草花のある大きな中庭を囲むようにして、建物が作られていました。園内はまぶしすぎず、日陰すぎず、心地よい風が吹いていました。
今回、ご紹介する「中野トシエさん」は、筆者のおばあさんでもなければ、親戚でもありません。友人から紹介してもらったのですが、初めてお会いするので、しっかり取材しようと緊張していました。・・・しかし!実は、敬愛園では、入居者の方々の想いでや人生談などを、順番に取材されており・・それらが掲載された「敬愛園だより」をいただきました。以下の記事は、もちろん敬愛園だよりも参考に書かせていただきました。本当に、敬愛園だよりがなかったら、どうなっていたかはわかりません・・。
はじめは、洗濯場にてお話を聞かせてもらい、トシエさんのお仕事が終わると、お部屋へ移動してお話を聞きました。
それでは、中野トシエさんの紹介にまいりましょう。

中野トシエさん~これまでの人生~

(1)育ての母ノエ と百姓しごと
生まれはね、大東町こおでん村。阿原山っていう富士山みだいに立派な山があるの。一ノ関(いぢのせき)から大船渡線(おおふなどせん)さ乗って、千厩の手前で降りるの。そって、馬車で3時間行ぐとあったの。
父親(ちぢおや)は千葉孫ェ門。母親はミドリ。私は三番目の子で、お兄さん一人、お姉さん一人いだの。兄弟4人あって、みんな死んでしまったの。おればり生きて・・(苦笑)。「家は昔、殿様が陣をとる場所として使われたんだと。大きな家だったもの地主さね。」(文献①から引用)

母親は三歳のどきに病気で亡ぐなってね、姉とおばあさんが母親がわりだったの。だがら、お母さんの顔は、ぜんぜん覚えてぃねの。とっても大切にしてもらっだの。んでも、近所のお母さんだち見ると、うんと羨ましかったの。涙が出るほど。そって、5歳のどき、新しいお母さんが来られだの。「ノエ」という人。その人はもともと近所さ住んでだ人だったがら、兄弟みんな安心したの。カラカラ菓子だのねじりっこだの、黒砂糖だの食べさせてもらった。明るぐて一生懸命な人でね、うんと大事にしてもらって、おらだぢも手伝いしたの。

家(うぢ)は百姓でね、養蚕あづかいから田、炭焼きどが、なんてもやったの。馬も4頭いだった。いっそ働いでばりいだの。馬に草刈ってかせたり、蚕あづかいだの面白かった。あだ、田植えのときは、苗(ねぇ)さ小豆まんま(赤飯)5個あげて、赤いタスキかげで、十人もそろって歌うでぇながら植えたった。兄弟みんなで苗運びもひて、楽しがったよぉ。
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あだ炭焼ぎもやった。「一釜から15俵位とって、その炭を4俵ずつ馬の背さつけで、山道坂道を三時間かかて岩谷堂まで売りに行ったものでした。」(文献④から引用)

子供のころ大変だったのは、雪道(ゆぎみち)。小学校さは四年生まで分校さ通って、あだ本校さ通っだの。往復(おうふぐ)2時間。雪(ゆぎ)降れば、向こうが見えねぐて、泣ぎながら通ったった~。

(2)13歳で糸とりへ
小学校終わってから(推定13歳のとき)、一ノ関(いちのせぎ)に「糸とり」に(一ノ関の紡績工場へ)行ったの。糸とりわかっでる?あの、あっついお湯で、(蚕の繭を)煮だった。「一年に二百円位稼いで仕送りしたの。」(文献①から引用)一ノ関(いぢのせぎ)とこおでん村はうんと遠かったの。
成績良ぐって、何回も名前呼ばれだった。「賃金は高くて皆と競争だったね。」(文献①から引用)
14歳のとき、繭の試験やったった。一番良い繭は群馬県の。とっても取りやすがった。岩手県のっは、すぐこぼれてしゃんた。寒いどごとのだがら。

ひて、初めての給料で、おばあさんと母親に、反物買ってあげたの。(二人が)うんと喜んでな~。おら恩返しのつもりだったども、「今でも思い出されて、泣がさる時もあるよ。」(文献②から引用)とっても良い母親さ巡りあえで、幸せだった。ほんとに。

(3)20歳で結婚・・東京・お茶の水の思い出
七年務めで、ハタチのときに、嫁に行ったの。おんなじ村の人ど。旦那は・・おれはハタチだったがら23歳(しゃい)だったの。ひて、村さ帰って(けぇって)農家をやったの。
長女が生まれでから、夫っは仙台に二年、東京さ三年働ぎ(はだらぎ)に行ったの。そひて、次女が生まれで、ずっと村さいだったども、村の人達(ひだち)が「離れてるのは良ぐない」って東京さ行かされだの。

東京の神田。タイプライターやったの。スタータイプライター。御茶ノ水の駅前のビルで。それの、ご飯炊きしたの。あたしもこれやった。ふふ。御茶ノ水の駅前のビルで働いだ(はだらいだ)った。一階はタイプライター、二階はタイピスト。「産まれだばかりの赤ん坊抱いてな・・・それはもう、大変だったよ。」(文献⑤から引用)そんなごどしてきたの。
四年いでね、子供二人あってがらね、帰って来たの。ほって、離婚されだの。・・旦那に別の人がでぎで。長女おいて、村さ帰って来たの。お腹のながには赤ん坊がいたの。9カ月。ひて、帰ってきたらば、次女が亡ぐなってしまって・・。男の子生んで八歳まで育でだども、東京の人さ取られでしまったの。跡取りにするって。「私は気が狂いそうになるくらい泣いたよ。」(文献①から引用)んでも、東京で子供ができだら、(元夫は)その子を跡取りにしたの。今っは、息子も幸せに暮らしでらがら安心してる。
やっぱ今も、東京に行ってみだい。ふふ。

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画像:現在の東京(筆者がJRお茶の水駅周辺にて撮影)

(4)30代後半で歳の差結婚・・北上でリンゴ売り
離婚されでね、村さ帰ってきたらば、村の人達(ひだち)、山のくだへ出でたの。見さ。案じて。泣いて来るど思ったら、笑って来た。ふふ。みんなさ心配してもったのは、うんと嬉しかった。
そのあとね、どごさも行ぎだがないがらね、6年(ろぐ年)一人いだの。家(うち)で。馬あずかって。百姓して。そひて、ろぐ年、一人でいだの。そやっでね、ろぐ年一人でいでね、北上に(お嫁に行った)。離されで。お父さんがね、どこにもいがねば、かまね、ほって行ったの。泣ぎながら行ったの。
北上の旦那は、60歳・・へへへへ。歳とったひと。おれは、30すぎだったんだな。「夫は立派な人で、私には決して苦労させなかった。」(文献①から引用)
北上でも、やっぱり百姓。リンゴだのね、あだ・・あ、リンゴ三反分、・・田は一丁三反分。・・なんぼだがわげわがんね。はは。

北上でも辛いことは、うんとあっだの。三日間寝込んだごどもある。んでも、「これではわねっ」と、なひてもやったった。「色んなこと経験したから、辛いことも大変なことも、苦だと思わねで生きてるの。何があっても、笑ってればいいのだ。アハハ。」(文献⑤から引用)

北上では、40歳すぎに、女の子ひとり生まれたの。そして、男の子ひとり、跡取りに養子もらっで、いま、東京の読売にいる。

なんってもやって、いっそ働いだの。リンゴはニ十貫※1(かん)リヤカーさつけで、ひっぱって歩っだの(ありっだの)。二十貫てね、箱に五貫入れてね・・こういう箱、おきい箱、五貫入り、四つつけて歩ったの(あれったの)。んだがら、ひざ悪ぐ(わりぐ)なったの。
関節だけ。未だに悪いの。三年注射したの。んで、治らねの。三年注射してね。あだ死ぬばり。死ぬの待ってんの。ふふふ。

※1「貫」とは「尺貫法の重さの単位。一貫は1000匁(もんめ)、すなわち3.75キロで、明治24年(1891)から昭和33年(1958)まで商取引で用いられた。」(デジタル大辞泉より引用)

(5)ひざを悪くして、敬愛園へ ※この文章の「」は文献③からの引用です。

―――40歳頃から、現在のお住まい「敬愛園」にいたるまでの事は、あまり覚えていないようで、いきなりですが、40歳すぎで養子をもらったとことから飛んで、75歳で敬愛園に入居された頃からお話しようと思います。―――

75歳のときに、雫石の松寿荘から、敬愛園に来たの。ひざ悪くて(わりくて)。ここは、楽しい。よいどごだね。まず、ここの人達(ひだち)はみんないい人だおね。そこ(中庭の)さ、うんどいいどこもあるの。もみじ。きれいでしょ。そこの、まるっけぇの(丸いの)。

こさ来たばっかりの頃は、ひざ悪くて(わりくて)、『「このまま歩けなくなってしまうのでは・・・」と考えると夜眠れない日が何に日もありました。』 ほって、毎朝、中庭の観音様拝んでがら、マッサージをしたの。足の裏のつぼを押しでがら、ひざをもむの。
『その時は京都の観音様から教えられた言葉を一心にとなえながらもむんだよ。
「我が手にしては 我が手にあらず この世にかくれます しくなしこの神(医者の 神) この苦手をもって 慈悲時は いかなる病も 慈悲ざることと思う」』
こしてマッサージすると、うんと良くなるの。

あだ、歳とれば腹さ肉つくがら、自分流の体操しだり、「朝と昼のラジオ体操も欠かさずしています。」 ほれから、あんべ悪いどごあれば、神社の狛犬さおっつければ、治るもんだ。「まんずやってみらいん。」

おらはね、人の「ざんぞ話(かげ口)」しないの。昔、ざんぞ話ばりする人がね、京都の観音様だ、痛い(いだい)どこ治してけろって言ったら、どごも悪いどごねって言われただの。「観音様は人の心までも見透す力もってるんだ。んだから、私は人のざんぞ話語るより、観音様ながめてる方がいいんだ。」

(6)365日、毎朝のたたみ物がお仕事☆
いまは、ただみもの(洗濯物たたみ)・・仕事してら時がいちばん楽しい。だってねぇ、話する人もいないし、みんなぼげだ人ばりだし(同じ部屋の方々は、みなぼけが始まっているそうで、話し相手がいないらしい)。一日だまーーーーーーって過ごすことも多いの。ふふふふ。
ただみものはね、こさ来てからずっと続けてるの。365日。毎朝。「いっぺ働いたから、膝の関節悪くしてしまって、今もたまに痛むけど、少しでも役に立ちたくて、 毎日洗濯物たたみしてるよ。働かねと体あんべ悪くなるもんや。これからも体動く限り、働くよ。」(文献⑤から引用)
あの人達(ひだち)(施設の従業員さん)、おれさ気ぃつかってんの。うんと喜んでんの。手伝ってもらって。ふふ。

夫はね、ここさ来る前に、亡ぐなったの。子供もね、みんな死んでしまったの。孫は、仙台、横川目、花巻さいだ。ちょうど一昨日来たったよ。

今までの人生で、楽しかっだごとは、なんぼもあったの。辛かったごども、なんぼもあったの。んでも、なにあっても、大変だと思わない。何あっても。思わない。ふふふ。ばがだがら。

◆◇◆参考文献◆◇◆
中野さんが暮らしている特別養護老人ホーム敬愛園さまから頂いた、同園が作成している「敬愛園だより」から、中野さんへのインタビュー記事を参考に、上記の文章を作成いたしました。具体的には、以下の記事を参考とさせていただきました。

①題名:「道程 口では言われぬ苦労してきた」,
聞き手:遠藤良子さん,とき:中野さん75歳

②題名:「野の花のように 母の想い出」,
聞き手:金野雅子さん,とき:中野さん77歳

③題名:「生きる 身体痛くても毎日動かしてるとあんばいいいよ」,
聞き手:佐藤美智子さん,中野さん77歳

④題名:「ふるさと 興田村・阿原山」,
聞き手:高橋尚美さん,とき:中野さん78歳<

⑤題名:「あの頃は・・・ 30代のころ 東京のお茶の水で 」,
聞き手:佐藤佑香さん,とき:中野さん98歳

取材後記

トシエさんは、車椅子の乗り降りや、車いすで歩くこともご自分ででき、すごかったです。なにより、もうすぐ99歳になるというのに、はきはきお喋りをされている事に驚きました。
トシエさんの履いている、かわいいミニーのスリッパは、近くのアメリカンワールドで購入した・・という話で盛り上がったり、「いちばん楽しかったことは」という質問には「離婚されだごど(東京の人と離婚したこと)」と、冗談のような事をおっしゃったり。
すごくお喋りの方はしっかりできるので、耳が一年ほど前から聞こえづらくなった事が、とてもつまらないとおっしゃっていました。
それから、敬愛園に来てから23年間、毎朝ずっとお仕事を続けられている・・トシエさんならではなのか、明治の方だからなのかは分かりませんが、いまの私達にはない部分だと感じました。
トシエさんの部屋の机には、お花屋写真、賞状がたくさん飾られてあり、敬愛だよりに四回も取材されたこともあわせて、これまでのトシエさんの歴史を物語っていました。
そして、最後に「丈夫で。これがらの人だがら。これからのひと。あんだは。丈夫で。」と握手しながら私に言ってくださったのが印象的でした。
はじめて会った私に、そこまで気遣いをしてくれる・・・歳をとるごとに思いやりのあふれる人間になりたいと思いました。

謝辞
まず、敬愛園を紹介してくださった、友人の根子さん、根子さんのお母さま、ありがとうございました。
そして、快く取材をさせていただいた敬愛園のみなさま、ありがとうございました。
中野トシエさん、つたないインタビュアーである私に、たくさんお話をきかせて頂き、ありがとうございました。
また、この記事が出来上がったのは、中野さんが敬愛園に入居されてから、敬愛園だよりにて取材をしておられた園の皆さまのお陰です。
今回、こうして、中野さん98歳までの時点での人生をまとめることができ、幸せに思っています。
私事ですが、98歳という、かなり高齢の方にお会いするのは初めてのことでした。
神様にでもお会いするような気持ちでした(笑)。
こんな素敵な機会を与えて下さった皆さまに、とても感謝しています。

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