柴田 まつゑさん
明治39年10月11日生まれ 高砂在住
◆ご家族
現在は高砂に住んでいらっしゃるまつゑさんも,生まれは港野村で小学校2年生まで住んでいらっしゃったそうです。
お父様は港の息子で船乗りをされていて、男やからということで松山という石の出る山の石を港へ馬で出したものを大阪・九州まで運ぶお仕事をされており,お母様も中所で店屋の娘さんだったそうです。男3人,女2人の5人兄弟だそうで,まつえさんが長女で他に次女,三男・・他の男2人兄弟は戦争で亡くなったそうで,現在はまつゑさん以外お亡くなりになってしまったとのこと。
◆少女時代の思い出
~港町での思い出~
小2までいた港町での思い出があったそうです。
船場の船へ遊びに行ったときに子供時分やから男女一緒に遊んでいるとき海にはまった。友達のいくえさんが池にどっぷんとはまったが沈んでしまわず浮いてきた。はまって沈んでいたら長生きできなかったかもしれない。忘れないで今でも覚えてる。」
~学校生活について~
小2からは今の中学校の当時裏門の近く(に住んだ。)
「小学校は男ばっかりの中、先生に優等まではいかないがまぁまぁ勉強ができるので学校の先生になったらどないと言われたが学校へ行かせてもらえなかった。女の子は学校をよく休ませられるし、勉強は必要ないといわれていた時代だった。」
そんなまつゑさんは書道がうまく字がきれいな方なのですが,学校は小学校だけ卒業して後は裁縫を習ったそうです。その裁縫はお嫁入りの糧になったのだとか。好きな科目は特にないそうです。
◆お仕事について
学校出てからは、様々なところでお仕事をされたまつゑさん。
「家にいるうちは何もわからないからといって、20歳なってからは女なので何年か奉公に出される。今ならば紹介状書くが当時は口で言ってもらった。向こうも置いてもらって裁縫がよくできるからといって良くしてもらった。大阪でいいところで、電車の通らないいい町だった。」
また他にもこんなところに。「父親の弟が大阪にいたツテでいい家やったが出戻りして、またいいところ探した。あちこち女中に行った。つらいことはないが楽しいこともない。裁縫が得意なので重宝がられました。」
◆ご結婚そしてご家族と出会い
実家に帰ってきてからは縁談ができて結婚されたまつゑさん。
22、3歳頃に飾磨に嫁いだそうです。
旦那さんは飾磨で船を管理する事務員だったそうでまつゑさんは旦那さんのことをこう語っておられました。「役所ではないが真面目な職場へ行きたかったのでちょうど事務員はあっていた。不景気になって、頼んでおって小学校だけしか勉強できてないけど美男やからべんりにおいてもらった。その後市役所で定年まで置いてもらった。運が良かった。」
お子さんは全員で男3人女1人の4人兄弟。長女については「長女近くにいてくれるのでありがたい。朝来ていっぺん帰って昼来てみんなほしいもん持って来てくれて、昼ごはんも作ってくれた。どれほど頼りにしているか。」と本当に喜んでいらっしゃいました。
とここで、今生活されている状況を少し話してくださいました。「お医者さん近所で親切にしてもらって、さみしいときもあるけど一人に慣れている。だから今日来てもらったのはうれしい。」そう言って,カバンから何か作品出してくださりました。
手先が器用で,包装紙まるめて作った作品を何百個もお持ちで,どうやら遊び用にお手玉も作られるそうです。筆者に対しても「お手玉持って帰ってもらおか。チラシを丸めたり、牛乳パックで出来たかごも何百個もこしらえた。何月何日何個と記録。いろんな事してはったが今は中々できない。じっとしているのが厭。」手先動かすと頭が活性化するのだそうです。
◆戦時中
続いては戦争中のお話をしてくださいました。
「戦前・戦中はお米が配給になっていた。防空壕の中から姫路の空襲を見た。きれいかった。焼夷弾も落ちてきた。」今では考えられない光景で、大きな赤い玉が落ちてきて姫路丸焼けになってしまい、その時まつゑさんはご主人とすごされていたようです。「終戦後は不自由で食べるものも十分とは言えない状態で、お米は闇市に買いに行く。」そう言っておられました。
ご兄弟は長男・次男と戦争に出されたそうで、お1人は独身だったもののもう1人のご兄弟はお嫁さんとお子さんが2人(3歳とお腹の中に赤ちゃんがいた)いらっしゃったがお2人とも戦死されてしまいました。「子供の時分に変なもんを食べさす、不自由な思いを子供にさせた。ありがたいことに手術してもらってええなぁええなぁと言われた。 施設に入れない人もいっぱいいてはる。」
その後もまつゑさんはお勤めには行かず、女中奉公と子育てに励んでおられました。上3人が男の子だったの1番上の娘さんが出来たのがなんと45歳の頃だったそうです。
◆まつゑさんの悲しかった出来事
「悲しいことはいろいろあったけど言わない、それは自分の心に置いておく。」そう言っておられたまつゑさんも、徐々にお話してくださいました。
一番の悲しみは、姫路にある兵庫カネボウの会社、副社長の方の家の奉公においてもらった時のこと。そちらの奥さんに、
「あんたなんて出ていけ。」
「奉公に行っていて、離婚して私も帰ってきて主人が女を隠しているのが分かった。奉公先に姑さんから手紙をもらって居場所がばれて、姑さん私のいるとこ知ってしまってすぐに姫路にとんでいくって手紙が来た。向こうの子供が死んでしまったと・・。」
姑さん「うちのもんや」と長男を取り上げられて生んでしまって帰ってきてからは、あちこちに奉公に出された。
また、まつゑさんは女の子が欲しかったということで人形を作って寝床に置いておいたそう。途中、意にそぐわない人とお見合いで1回会っただけで結婚させられました。「騙されていたからその当時も子供出来たけど、『向こうの子やから、迎え行かなくてもまた子供出来たらその子のことは忘れるのできれいに諦めろ』と言われた。」
「たまたま姑さんも若い時そこで奉公していたために知らないはずの住所を知られてしまい、いろいろ言われてしまった。」
結婚されてからも辛かったことが多く、悲しかったが言わないで自分の中に納めていたというまつゑさん。「皆それぞれ違うもの、現在子を放っておいて他のとこ行ってたらまた違ったかもしれないが・・。」