上坂 ひなさん
明治43年11月15日生まれ 兵庫県豊岡市中郷在住
-プロローグ-
ただそこにいるだけで大らかなものに充たされる、安らぎがある。長い歳月をくぐり抜けてきた人だけがもつ、強さとやさしさと尊さと。側にいると日常のささくれでさえ「気にしなさんな。あるがままに堂々と生きなさい、大丈夫だから」と背中をさすってなだめてくれる、そんな気さえも。「まあ大きいなって」「まあ、ありがたい」と、感嘆詞の多い口癖…。広大な畑の真ん中、ポツンと一人で仕事する時は、腰を低くまるく屈めて大地を崇拝するようでもあり、自然と一体になって闘っているようでもあった。
新種の作物や新しい感覚の和裁に常に興味を抱き、旺盛な創作意欲と感謝の気持ちを最晩年まで衰えさせることがない102歳=明治の人。今回は、祖母の生きてきた軌跡とその生命力の強さをライターとしての視点で取材しました。
くよくよせず自然体で生き、
食べたいもん食べられたら幸せ
JR大阪駅より特急「こうのとり」に乗車して、「江原駅」へ。車窓から流れる但馬の情景は、湿気を帯びた杉の森や田園が続き、やがて鄙びた村の空気の中に、稲穂と牧草の匂いが重なるようになると、日本海に注ぐ一級河川「円山川」(全長68㎞)に寄り添うようにして、電車はコトンカタンと走っていく。降り立った「江原駅」から全但バスに乗り換えて「中郷」へ。ここは日本で指折りの夏の最高気温と、積雪量を誇る豊岡盆地だ。迫る山々と田畑の、澄んだ空気!耳を澄ませば秋ならではの鹿の甲高い声が聞こえる静かな山里である。
「まあ、よう来ておくれんさって。おばあちゃん、朝から話しておっただろ、お見えになったで…」
嫁の岳子さんと、ひなさんの長女・千恵子さんに歓迎されて奥の和室へ。浅黒い日焼けした肌と意志の強そうな小さな瞳。ひなさんは、介護用ベッドを少し起こしてもらい、じっと一点をみつめていらした。
*地域のゲートボール大会にも積極的に参加*
「あらあまあ珍しい人!」と開口一番。
「こんにちは。あんたはええなあ、べっぴんさんで元気そうだ。遠いとこ忙しいのによう来てもらって、すんませんなあ」
と、ツヤツヤの頬を光らせて一気に話されたので、こちらも嬉しくなって
「おばあちゃんがこうして元気で生きとっておくれるから、会えると思ったら元気になるのよ。毎日よう頑張っているね、ありがとうね」
と、ひなさんの前に跪いて答えた。
ひなさんは、今年(2012年)11月の誕生日で102歳。人一倍の働き者で常に本気で生きてきた明治気質のおばあちゃんだ。100歳までは米づくりや畑仕事に丹精こめて、一家の食卓を支えるほどの豪腕ぶり。だからというわけでもないが、人に遠慮をしたり、気を遣ったりするのが苦手。自ら指令塔となって、「することせんにゃあ、人に笑われる。はよせんにゃあ!(はやくしなさい)」と歯に衣きせぬ物言いで言い切るので、最初は驚く人もいるようだが、その飾らない人柄ゆえに社交上手でもあるという。また、102歳のひなさんの健康のバロメーターは、旺盛な食欲とよく眠ることだ。
「おいしいものなら何でも食べたい。好き嫌いなく何でも食べるしきゃあ元気だ。ごはんもサツマイモも、野菜という野菜は全部無農薬だで健康にいい。カレイの煮付けに、サンマ、肉の炊いたの、黒豆、コロッケもおいしい。ソフトクリームは風呂上がりに年中食べます」
と、ご本人がおっしゃるように、入れ歯は嫌いで、歯茎を使って上手に咀嚼。この年齢で家族とほぼ同じものを胃袋におさめてしまうから驚きである。
畑仕事しとる時には何も考えとらん
次は何しちゃらあと帰ってから思う
「ひなさんは、明治43年、4人きょうだいの次女として、大阪の堂島で生まれた。父母は関東炊きの店を営む傍らで子供たちを育てたらしく、「夕方になると薪に火をおこして煮物をいっぱい炊いていた」
と、ひなさん。ちょうど2歳になる頃だった。父親は流感をこじらせて突然の急死。ひなさんの母は子供を連れて日高町野々庄の生家へ引き上げ、祖父とともに6人所帯で暮らしたそうだ。働く母の背中をみて大きくなったひなさんは、尋常小学校を6年間で卒業すると、日高町の「郡是製糸(株)(現グンゼ)」に住みこみで勤務。桑を作って蚕を飼い、工場では繭から糸をひいて絹を紡いでいく機織りが仕事だったという。
「糸ひきの仕事は競争みたいにして、早くようけしたから何べんも表彰してもらったなあ。仕事が終わって晩になると着物や布団を縫ったりして和裁も一通り教わった。本も沢山読んだ」
やがて、ひなさんは22才で、上坂市太郎さんと結婚。旦那様の印象は?
「顔も見ん、家もわからんと親が行け!というたから嫁いだ時代やで。背は低い、顔もそう男前じゃないしね。ほんでも一緒に暮らしよるうちに手先が器用な人だし、親切だし。『どんなもんでも村一番のもん(作物や大工仕事等)こしらえる市さん!』と近所の人がよういいよんなったで。そらおじいさんがおる時分が一番愉しいわな」と、ひなさんがいうように、朝早くから夜暗くなるまで仕事熱心な市太郎さんのそばを片時も離れず、家畜の世話から農作業、縄仕事まで農家仕事を教わったのがこの時期だ。
それでも慣れない仕事は新婚当初よほど骨身に沁みたのだろうか。
「子供らは百姓家には絶対にやらん!」
これが当時のひなさんの口癖だったとか。
そして昭和7年、長女の千恵子さんが誕生。続いて女2人・男2人の子宝に恵まれた。千恵子さんは当時の家をこんな風に振りかえる。
「山の根(麓)に建った藁葺き屋根が幼い頃の家でした。煤で焼けた太い柱のそばに囲炉裏があって、そこで焼き芋やかき餅を焼き、焚き物やらをして皆で囲んだもの…。家の造りは田の字のように居間と8畳、奥に6畳と8畳があり、そこで蚊帳を吊って私ら子供は川になって寝ておりました。トイレと風呂場(五右衛門風呂)は別棟です。真冬でも履き物をはいて一度表へ出てから用事を済ませるような不便さも。屋根裏では、藁をもって上がって縄をない、むしろなどをよくこしらえたものです」
これを聞いて、ひなさんも何度も頷き、「藁屋根の家は、なんとはなしに、ぬくもりがあったでなあ」やがて昭和16年、第二次世界大戦へ突入する。都会からの疎開先となった中郷は、小学校の校庭に芋畑までこしらえ、食糧補給するのがお役目。大阪や神戸近郊からは戦火を逃れて人が押し寄せ、どの家の農家もモノが飛ぶように売れたとか。
しかし、いい時期はつかの間だ。虚弱体質だった市太郎さんにじわりじわりと病魔が忍び込み、胃潰瘍から胃ガンへ。そして昭和39年、長い闘病生活の末、ついに他界。夫亡き後のひなさんは、農作業はもとより、竹工場、縄家、堤防に芝をつける土方まで請け負って男顔負けに働き抜いたそう。そうやって子供たちを一人ひとり無事に縁組みさせて、長男には美人、と評判の岳子さんを嫁にもらい、一家の大黒柱として立派に生きてこられたのだという。
女のオシャレ心は忘れない、
旅行は心の洗濯!
さて、中年になってからのひなさんの生き甲斐は、米づくりや畑仕事のほかにも、竹で編んだ籠や和裁、縄編みを近所の人に教える “モノづくり”となった。
「畑づくりはまんだこれから。今年はまんだせんなんで、ちょっとおつ(少しずつ)するんだがな。朝は6時に起きて、自分のしょうと思うだけ害虫とりやら草刈りして、暑うなったら昼頃戻ってくるんだ。何にも食べんとお茶だけ持っていくで朝ごはんはそれから。昼は廊下やそこいらを掃除したり、何かつくりもんしたりして夕方また畑へ行く。田んぼの水もみんなあかんし、忙しい。何か新しいええもんはないかな、若いもんに負けんようなもんしたい、とそんなことよう考えとるわ」
ひなさんの性格を物語る記録がここにひとつある。それは農業日誌だ。昨年まで綴った何十冊もの日誌を見れば、いつ種を蒔くか、どんな手入れをするかが一目瞭然。長年の経験と勘が何よりのアドバイザーである。
「おばあちゃんは、よう働きんさるでなあ。自分にも厳しいけど、人のすることにも黙っておけない人やで。私が結婚した当初でも玄関の靴の脱ぎ方や仕事の仕方をみて『女だてらにこのざまあ何!』と何度雷が落ちたことか」(岳子さん)
多忙のひなさんが、3人の孫守りを引き受けたのも50・60代だ。
「上の子が遊びに出てしまったらきょうだいの面倒もみんから仕事ができん、と上の子はよく庭の柿の木に縛り付けられて私が勤めから戻るまで縄を解いてもらわれんかったらしいですわ」
さすがは明治のおばあちゃん、お仕置きの仕方も大胆だ!それでも10人の孫たちには、こっそり小遣いを渡す一面もあった。
「祭事はいまでも好きだなあ。栗入りの赤飯やおはぎ、バラ寿司を精出してつくっては近所や親戚中に配るのが愉しみで。海水から一生懸命に塩をこしらえて、それでぬか漬け、梅干し、らっきょう、味噌まで作って食べさせておくれたわなあ」。
また、ひなさんは外出こそ命の洗濯だと、婦人会の行事や旅行にも積極的に参加。そんな時には真っ赤な紅をさしておしろいをはたき、その辺にはいない“ハイカラなおばあちゃん”、と今も語り継がれるほどである。
「春や秋によう旅行した。西国33ヶ所めぐりには6年もかけて行った。雨が降ったら仕事にならんで誰とはなしに温泉へよう連れていってもらったなあ。風呂は気持ちええで大好き」
ひなさんは眠そうな目をあけたり閉めたりして、こう小さくつぶやいた。
トラックにはねられても死なない。
寿命のあるのは全部おかげ
ひなさんは、丈夫だ!家族みんなが次々に風邪をひいても、咳ひとつしない。晩年も天気の日は表へ出て仕事し、雨の日は新聞やスポーツ観戦のテレビをみて過ごす、晴耕雨読の生活。そんなひなさんが90才半ばのことだった。
「いつものように畑から野菜もんいっぱい積んで自転車を走らせておんなったら、なんと後から軽トラックに思いっきりはね飛ばれはってね…」
えっ!90才半ばでそんな大事故に。
「そう、軽トラックに自転車のタイヤを踏まれて、その拍子にポンと自転車ごと宙へ舞いあがり、なんとフロントガラスを蹴破って軽トラックにつっこむと、気がついたら運転手さんの隣の助手席にちょこんと座って、おんなったらしいからね。頭から血を流すおばあちゃんを見て、運転手はびっくりして病院に搬送されたそうだけど、レントゲンやCTスキャンをかけてもどっこも異常なし(頭と膝にかすり傷)。普通なら死んでもおかしくないのに寿命がある人だ、とお医者さんはえらい感心しとんなったくらいやから」
事故でこっぱ微塵になったのは、自転車だけとは。骨が強いひなさんのこと、入院もせず数日治療に通ったくらいだという。奇想天外な話はこれだけではない…。
「元々おばあちゃんは心臓肥大で薬も飲んでおられるのでね。ある日定期検診に行ったら、『ありゃあ、数日前に心筋梗塞をおこされたようだから、はよ大きな病院へ』といわれてすぐ救急車です。1カ月ほど病院におんなったかしらねえ」
ひなさんの心筋梗塞騒動は、なんと2回も。それでも、やがて口から食物が摂れるようになると、自らの治癒力で回復するのだとか。無論、家族の手厚い看護も当然のごとく、ひなさん自身の努力も大いにあるのだろう。病院では手すりを持って歩く練習、家へ帰ると杖をつき、乳母車を押して畑へ向かうリハビリを、誰がいうでもなし実践されていたそうである。
「仏さんは毎日拝む。事故に遭ったのも西国33ヶ所を全部まわった翌年だったから、おかげがあったんだろうで。ほんでも岳ちゃんがええ世話をしてくれるんでこれが最後だらあか、と思う時もあったけどな。悪いなあ百才越えてもまだ生きとって…。出来ることぼつぼつでもせんと…なあ」
新聞は端まで目を通す、
何でも知ることは面白いから
最近のひなさんの暮らしは、101才の夏に玄関先ですべってこけて頭を打ってから、すこぶるスローペースになった。当時はまる1日意識が戻らず、それから1週間近くも朦朧とし、何ひとつ口にされなかったとか(医師の診断は熱中症)。しかし、ひなさんは回復した。今はベッドのそばに孫からの手紙や写真を眺めたり、12人の曾孫と遊んだりするのが愉しみ。地域のデーサービスにも車椅子に乗って率先して出ていく。
「今でも新聞は端から端まで読むで。耳が遠いけど新聞を見たら問わんでええし、なんでも世の中のことが分かるでなあ。昔から目はええんだ。老眼かけんでもよう読めるから、あんたの顔もよう見える」
「おばあちゃんは機嫌のええ時は、夜中でも一人起きてしゃべっとんなるさかいに、デーサービスでも人気者みたい。私は病院で母を看取りましたから、自分の母にできなかったお世話をこうしてヘルパーに助けてもらいながら、させてもらっておりますんや。出来ないことはせんから苦になりしませんわ」
と岳子さんの言葉をうけて、81才の千恵子さんもうれしそうに、
「岳ちゃんありがとうね。おばあさんが畑に出ない代わりに、この頃は義ちゃん(長男の義海さん)が自分の仕事のようにして、おばあさん以上のええ野菜もんこしらえて持ってきてくれるから、ありがたいねえ。夏の大きなスイカや瓜をみてビックリしたわな。昔は皆がおばあさん任せだったけど、親の血いうもんは脈々と受け継がれているんだなあと思って安心したわ」
と、ふたり顔を見合わせてニッコリ。ベッドの上の当のひなさんはといえば素知らぬ顔。目をパチパチさせて、蛾が飛び回るのを懸命に追い払おうとされていた。ひなさん、トラックにはねられても心筋梗塞を起こしても、頭を打って熱中症にやられても、よくぞここまで元気で乗り切ってくれた。その気力、存在感は偉大!先人の並々ならぬ地に足をつけた生命力に脱帽である。
「何のために生きとるんか自分でもようわからへんわ。何かお役目があるんだらあか。畑はまんだこれから。まだまだせんならん。あんたも元気でがんばりんしゃいよ!ほんでまたさいさい会いに来て。何にも持たんと、さいさい来てね」
そういいながら、まるで団扇をパタパタするようにゆっくりと可愛く手をふってくださった、ひなさん。垂れた腕の皮膚と、頬の肉までぷるんぷるんと揺らして、まるで少女のように白髪をちょんと短く切って笑われている。いいなあ、明治の人は時の流れがゆるやか。静かで温かい。お側にいるだけで、優しい安全地帯に守られているようである。ありがとう!ひなさん、また会いに来るね。それまでお元気で。
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取材:みつながかずみ
(2012.9.21取材)