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明治生まれの人、約一世紀(100年)を生きてこられた人の言葉を今、伝え残したい。これから先、人生を生きていく私たちにとっての良きバイブルになり得ると感じます。

古き良き時代「明治」を伝え残したい

明治の人ご紹介 第29回 小田中 ツノさん

小田中ツノ

今までもね、そんなに苦労さねで、
まずいーぐトントンと暮らしてきました。

小田中 ツノさん

明治42年11月20日生まれ 岩手県出身、岩手県盛岡市在住

-はじめに-
こんにちは、取材者の伊藤です。取材させていただくのは、二人目になります。
取材の日は雪がぽとぽと降ったりやんだりしている寒い日です。筆者も、本日取材に協力してくださる皆さんと同じく、タクシーで「けやき荘」まで向かいました。白い空で、タイヤが道の雪をシャリシャリこいでいきました。大雪になったらどうしよう・・なんて不安に思いながらけやき荘につくと、ガラス戸から中が見える、あったかそうな建物が目に入ります。大きめの車道を一本入った、落ち着く場所にありました。
車を降りると、職員の小綿さんがすぐに案内してくれました。 取材では、小田中さんの甥夫婦、姪夫婦の4人が一緒にお話をしてくださいました。 なかでも甥の光夫さんは、前日に1日かけて小田中さんの人生を紙にまとめてきてくれておりました。4人は月に1度はけやき荘にいらっしゃるそうですが、なんとたまに昔話を小田中さんから聞いて、昔のことを忘れないようにしているそうです。

さて、ここからは、取材でお聞きした「味のある語り口調」をできるだけそのままに小田中ツノさんの人生を紹介してまいります。


ぜったい忘れない出来事その1~嫁入り道具でヤドカリに、見物人がたくさん~
甥:これはね、おばちゃん(ツノさん)から聞いたごどしゃべる。
昔、ながもち・・「たんす長持ち」ってゆうのあるでしょ?嫁道具ね?長持ち歌なんて聞がね?
まあんたわがねがもしらねども。ながもちたらね、幅は・・・このぐれいか?まずね、70センチ80センチあるのがね、それから、長さが、5尺ぐらいか。5尺っていえばま、尺だがら3×5=15で、ま1m半ぐらいとね?に、深さが、・・50センチはあるでしょ?ながもち担ぎ歌ってきかね?嫁道具なんだげどもさ。箱に蓋したようなものが。簡単に言うと。
それを、新堀と、志和ではね、12・13キロ・・花巻に行くくれい距離あるのさ。12・13キロ。そのどぎに、実家からもらったものだがら、父さんは、あの、箱のね、蓋があるんですよ。長い箱に。 幅は・・・このぐれいか?まずね、70センチ80センチあるのがね、それから、長さが、5尺ぐらいか。5尺っていえばま、尺だがら3×5=15で、ま1m半ぐらいとね?に、深さが、・・50センチはあるでしょ?
甥の妻:40センチ
甥:50センチぐれいあるんだべ、ながもち、こな。・・まあ、それを、12キロの砂利道を、、父さんは、身を、箱を背負ったど。身体良かったから。
伊藤:はい。父さん・・旦那さんですね?
甥:旦那さんが。ね?12キロの道のりだよ?
伊藤:はい・・
甥:石鳥谷から、今は立派な道路になってるけども。おばちゃんは、・・あんだがらしたら   おばあちゃんだね。小田中は、蓋を、かけでったと。
小田中:わたし、蓋しょってたの。父さんは荷をしょって、
甥:わがる?しょうって考えられないでしょ~こんなおっきいの。
伊藤:はい・・・
甥:そうしたらね、休み休み行って、途中12・13キロの間にね、よそのひどだち、なにどしたって、見物人がね、すごかったんだって!
伊藤:そうなんですか!
甥:おれもそれを聞いてね、びっくりしたった。ね?んだがら、おばちゃんのことにね、
私ね、やどかりが歩いたくらいひどかったでしょ?と。この体だよ?わかるでしょ?蓋はま、このぐらいか(大体の大きさを手で再現しながら)、それをしょったらさ、ヤドカリとしか見えねかったでしょぉ?ね?このこと聞いて大笑いしたよ、おれ。
伊藤:はいはい(笑っている)
甥:そういうね、今だらほれ、車とかかついで行くでしょ?な?父さんが身をもって、
おばちゃんが蓋・・ヤドカリみてぇにして、これ、他の人達がね、そんなに村落はないんだけども、部落にいるとね、なーにが来たかと思ってね、見たんだって。
このごとはね、やっぱり忘れねで聞かせだった。ヤドカリって言うんだけどもね、わざと。ヤドカリってね、田舎の言葉だ。12・13キロだよ?
伊藤:みんなどこの家も担いでったんですか?
甥:いーーどこは、しょって・・・ま、そんなに馬車につけたとかさ、
伊藤:リヤカーとか・・
甥:ま、そうでしょうね。・・リヤカーもろくに無かったんでねすか?馬車あればあって、荷車かな?
姪の夫:なが・・竿さして、そして、
甥:あ、そしたらば、担いでか?ね。
姪の夫:あの、結婚式どか。
甥:ところがほら、うぢが、中身はけねかったともね、(笑)その、入れ物だけでね、父さんと・・ま、結局旦那と、自分と、で、分けでさ、・・しょってたど。よーわがねども、しょってだか背負ったど。ね?んだがらね、滑稽な話しなんだよ、これ。おら、うんと笑った。
ぜったい忘れない出来事その2~3歳で、雪の上になげられた!~
甥:三歳の時だと。それは笹間でも二戸でも雪降るんだけどもね、姉がいたんだけども・・「きかない」*1姉が。「きかない」姉てばわかる?
伊藤:はい、わかります。
甥:姉が泊まりに来たどき、ねしょんべんしたんだと。
姉は「クマ」というんだけども、それを見て「なんだー!」と雪さばっさーーん。
縁側か外に投げられたんだど。三歳か四歳のときに。
覚えてら?忘れだか?
ツノ:・・・わすれねっ。
一同:(笑う)
ツノ:むがす(昔)、布団しいたのでねぇ(ではなくて)、ゴザしいて、その上さ寝かされたんだ。
甥:冬でもが?
ツノ:・・冬よ。・・冬だったって・・布団さ寝ねがったんだ。
「このねしょんべんたれガキ!」ってれ、ぼってり投げられたの。
甥:はは。三歳か四歳だよ?
一同:(笑い)
甥:よぐおべでら(覚えてる)と思ってね、これはね、やっぱり覚えてらんだ。
つめてんだもの。雪だおの。
小田中:むかし、着て寝ねがったんだ。裸でごとんと寝せられて、そのまま投げられたの。

たくさんの出来事があった人生~ここでは綴りつくせません~
ここで、ツノさんがこれまでの人生、どんなことがあったのかご紹介します。
まず、ツノさんは当時の岩手県稗貫郡新堀村に誕生しました。長男、姉二人につづき4番目の女の子です。家は大きな農家で、小さい頃から百姓の手伝いをしたようです。
その後、6歳で父親を、12歳で母親を亡くしました。
親を亡くしてからは、兄と二人で暮らしたそうです。小学校は4年生まで生きましたが、ご飯炊きや姪の子守をしていました。
昭和7年、22歳で結婚。夫は志和村の人で、お酒は飲むが体格が良く、いい人だったそうです。ところが、結婚して間もなく、夫は小樽の酒屋へ出稼ぎへ。すぐ戻るだろうとツノさんは岩手に残り、当時では珍しくない姑とのいざこざの毎日を送ったそうです。そんな彼女をみかねて、なんと夫の姉が「これで小樽へ行きなさい」とお金を工面してくれたのです。連絡船で8時間、2日ほどかけて小樽へ。その頃には、長男が生まれており、その後20年暮らします。

それから、今度は神戸の酒屋へ行きます。ツノさんはご飯炊きとして働きました。夫の人柄が買われ、仕事は順調だったそうです。そんなと中、大東亜戦争の勃発により、ツノさん一家は岩手へ疎開するために戻ってこなければなりませんでした。

戦争の話は、やはり記憶に残っているようで、「隣近所のひとも家の防空壕に入れた」「馬や牛は人が通るたびに、助けて・・という声を出していた」など、すらすら体験談を話してくれました。

旦那さんは、36年にチューブ(脳梗塞)による麻痺を苦に亡くなります。
その後39年にツノさんも喉の病気で入院を。退院後は、紫波病院のごはん炊き、その後、甥や姪のいる盛岡のお寿司屋さんでご飯炊きをして働きます。お寿司屋さんには56歳から81歳まで、25年間も務めたそうです!
そして、老人ホームや病院を行き来した後、現在の「けやき荘」にいたります。
ここで、ツノさんの一人息子「サダオ」さん。息子は14歳で中学卒業後、高校から下宿をし、そのまま東京へ就職しました。なんと就職後~今まで、甥が連れていった1回、結婚式、孫が生まれたとき・・の3回しか会っていません。
息子はどういうわけか岩手に帰ることがあっても、母親のツノさんとは連絡を取らないそうです。
ここで、ツノさんの一人息子「サダオ」さん。息子は14歳で中学卒業後、高校から下宿をし、そのまま東京へ就職しました。なんと就職後から今まで、甥が東京へツノさんを連れていった1回、結婚式、孫が生まれたとき・・の3回しか会っていません。
息子さんはどういうわけか岩手に帰ることがあっても、母親のツノさんとは連絡を取らないそうです。


「みなさんのお世話で」~甥夫婦と姪夫婦に支えられて~
伊藤:「いままででいちばん楽しかった」のって、どんなことですか?
ツノ:いまいぢばにいどご。自由なんだもの。今ね。
101歳だがら、今まで生ぎだんだもの。
伊藤:今までどうでしたか?101歳まで
ツノ:今までもね、そんなに苦労さねで、まずいーぐトントンと暮らしてきました。
みなさんのお世話で。まず。
甥:皆さんのおかげなんだな。
ツノ:みなさんいいひどばりだもの。幸せです。

ツノさんの人生のあらすじを見ると、結構な波乱万丈な気がします。それでも、「そんなに苦労しないでトントンときた」と言えるのはすごいです。それとも、歳をたくさん重ねると、昔の苦労は忘れてくるものなのでしょうか。
1.甥の光夫さんが分析するには、ツノさんの元気の源は、施設の方の暖かいお世話と、指導のおかげ。それから、生活している仲間との交流ができているこ。また、手先が器用で今も折り紙や編み物、こまめに動いていること。さらに、月のお小遣いや、面倒をみてくれる甥・姪がいることだそうです。

やっぱり人の暖かさ~謀施設での日々より~
元気で気丈なツノさん。しかし、そんなツノさんでも沈むときは何度かあったそうです。中でも印象に残ったのは、現在の施設に住む前、いくつか入所したうちのひとつの施設でのことです。
そこは、一部屋八畳に4人が同居しておりました。同じ部屋の中のボス的存在の人と折が合わず、150cm弱ほどの小柄なツノさんは、布団の押入れへの出し入れをさせられたそうです。人間関係がうまくいかないなかで、冬の寒い川辺で、白鳥に向かい「あんたたち寒くないの?」と話しかけることもあったそうです。
今は施設を変え、穏やかに暮らしていらっしゃいますが、こんなに気丈そうなかたでも、人の暖かさに触れられなくなると、心が元気でなくなるのです。

-おわりに-
まず、取材先を見つけてきてくれた古都恵ちゃん、ありがとうございます。そして、取材の仲介をしてくださった小綿さん。快く取材を引き受けてくださった小田中さん。月に一度の大切な面会日の時間を筆者に分けてくださった親族のみなさま。ありがとうございます。
冒頭のツノさんの「おことば」は、けやき荘で決まっているお昼の時間になり、お部屋を出て行かれるときに、みんなへかけてくれた言葉です。100歳を超えても、人を気遣える・・そんな人になりたいと感動しました。
実は、今回の取材は、全部で2時間半ほど続いたのです。途中。ツノさんはお昼おごはんのために席を外されますが、前日にみなさんが1日かけて整理してくださった小田中さんの人生史をもとに、ずーっとお話してくださいました。それほどの時間、ツノさんをはじめお付き合いいただいた親族のみなさん、本当にありがとうございます。最後に、すごく仲の良い甥・姪夫婦とツノさんですが、息子さんとは人生の大半が疎遠になってしまっていること、息子ではなく甥・姪夫婦がツノさんのお世話をしていることを、何かと気にされている様子でした。でも、月に1度は必ず会いにきてくれる人がいて、終始 健康そうに笑っているツノさんはとても幸せそうです。これは今の世だから思えることかもしれませんが、親子や孫祖父母の絆を超えたものがあると感じました。 みなさんは、どう感がられますでしょうか。

-おまけ-
102歳と聞いていたので、もう少し元気でないかたかと思っていたのですが、一人でサクサクと歩き、耳が遠くなったそうですが、取材のなかでも相槌を打ったり、昔話をしっかり覚えていたり、ツノさんからすごく元気な印象を受けました。 また元気な明治生まれのかたにお会いしたいです。

小田中 ツノ
ツノさんと甥・姪夫婦(右が甥、その隣が姪)
  (筆者が撮影)


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取材:伊藤舞

(2010.11.27取材)

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