伊藤 ナツコさん
熊本県熊本市在住
-はじめに-
「自由に座(すわ)んなっせ」
そう言って足を崩さない筆者に気を使ってくれたナツコさん。
「たーだ気ばってきただけで」とこれまでの人生を思い出しながら語ってくれました。
1.実業学校での想い出
「里は菊陽の原水(現自宅から電車で40分ほど)、あたらしらが細か(こまか)時は実業学校へ行きました。6年生から3年間あってね。今の農業学校です。園芸から畜産、果樹、何から何まで勉強したものです。裁縫が一番時間が多く、1日2時間はありました。着物、男袴から女袴、みーんな3カ年のうちに習いましたよ。今もんのできるこっちゃない!(笑い)」
現在の農業学校は専攻科目ごとに分かれて習いますが、当時は農業や生活にかかわることはすべて習う、農業学校と商業学校がいっしょくたになったような学校だったようです。
ナツコさんの実家は百姓で、田植えなんて小さい頃からやっていて、他にも家で先に習ったことが多く、逆にナツコさんが先生へ教えることも多かったようです。
「田植えはうちで慣れてるから先頭に立ってやってと頼まれてね、かえって先生がへたくそでした。女の先生は裁縫ばかりしていて、田植えは教えてあげました。」
家から学校までは狭い狭い山道を走って登校していました。だから遅くまで先生から頼まれごとや、先生に「教えてほしい」と言われたときなどは「先生が送るから」と言われたそうですが、逆に安全な道を通って遠回りをしなければならず、「一人で大丈夫!」と狭い道を近道して帰ったそうです。近道もあってか、小学校では30分かかった道を実業学校時代は5分もかからず行けるようになったとか。
朝から家の炊事・後片付けを終えて、学校へ走り・・家の手伝いと勉強を両立していたナツコさん。学校も農家の忙しさを理解してくれており、農業繁忙期は何日か休んでよかったそうで。しかし、休んでも授業は待ってくれません。休むほどに勉強から置いていかれ「かいもく分からん」状況になるので、少しでも早く学校へ行こう、勉強遅れを補おうと頑張っていたそうです。
家から学校敷地内に入ると、まず実習室があり、校舎がある。だから陰にかくれて入れば朝礼に出ずに校舎へ這入れたそうです。朝礼に出ずに、勉強。みんなが朝礼を終えて教室へ入ると、もうナツコさんは着席している。・・それでも、あれ?となることはなく、足が速いからな~とみんな思っていたそうです。
2.走とっば速い
「走っとば速くて、たいがい負けんかったなぁ。男は太いし、先生にも、来賓にも負けなかったです。でも背は小さいもんだから足のコンパスにはずぶん差があって、回転で競っていました。「ねずみの兵六玉(ひょうろくだま)」なんてあだ名もつきました。ははは。」 徒競争の上位は常連で、1等は帳面3冊、2等は2冊、3等は1冊・・ノートを買う必要はまずなかったそうです。 走るのが一番お得意でしたが、家業もよく頑張っていたので、学級で誰も分からない問題を一人回答できたりと、得することがあったとのこと。
3.妹と弟
実業学校を卒業後は、師範学校へ本当は行きたかったけれど、弟が鹿児島の高等専門学校へ、妹が裁縫の専門学校へ行くもんだから「ナツコねえさん」が働いて養ったそうです。妹が行った学校は材料があまりなく、木綿以外の様々な布を使えないので困っていました。でも、ナツコさんの家ではカイコ(養蚕)を飼っており、他の布でも練習ができたそうです。だから妹さんは羽二重を縫ったりなど、上達したそうです。
ナツコさんは一生懸命頑張るばかり。姉はカイコの世話をし、ナツコさんは農業、妹と弟は学校へという日々でした。
「体はおかげで強かですなぁ」ナツコさんとお兄さんはなんでも競争をするほど運動神経が良く、子供の頃から仕事もしてきたので体が丈夫だったそうです。
あとは、負けず嫌い。お兄さん以外にも、男の人となんでも競い、俵をかついだりもしたとか。さしものナツコさんでもそれは重く、体も小さかったので2升以上は無理でした。
4.野球好きの息子
一度目の結婚は、戦前に。けれど、一年数カ月で夫は戦死し、本当につらかった。今の人はすぐに別れるけれど、当時は一緒にいたくても居られなかった・・。 それから二度目の結婚をし、子供は皆で8人兄弟になりました。 その中でもナツコさんがしきりに語ったのは、野球好きの男の子のことです。彼は一人目の子供で、ナツコさんによく似て体をよく動かす子供でした。 走るのも早く、野球が大好き。 しかし50メートルも走るとすぐにうずくまってしまう。彼は生まれつき心臓が悪かったのです。現代なら病院で治る病気だったのかもしれません。しかし、当時はなす術がありませんでした。野球も好きだったのに、体のことがあるから学校ではあまり野球をさせてもらえなかったそうです。 熊本駅で空襲に遭ったと時も無理に逃げず、体をじっと丸めて動かさなかった賢い子でした。20歳まで生き、可愛くて哀れだったこの子のことだけを、他の兄弟のことを置いて語っていました。
5.朝から晩まで百姓、夜なべして針仕事
2回目の結婚についてですが、それはそれはよく働く毎日でした。
終戦直後、姉が満州からひきあげて来て「何も食いとーなか。(配給は)カライモばっかり。」と言う始末で、それまで家内の仕事ばかりしてきた姉だもんで、何とかしてくれ~ということで、それなら一緒に住もう!とナツコさんは子供・姉を背負って働きます。
よく働くもんだから、朝いくと「働き盛り」ということで配給を取って置いてもらえた。麦ごはんでもカライモでも良いし、とにかく元気に働いた。
昔は各家々を区長さんがまわり、掃除が行き届いているか見て回ったそうで、区長さんに誰かいい人いない?と言うと・・
「けったくろう人、でも体は強いひと(とんでもないけど体は強い人)」を紹介してもらい、再婚となりました。
どう「けったくろう」かと言うと「仕事せず・うまいもん好き・金つかう」と三拍子そろった性分でした。旦那はすーすーと寝て、子供がいても何もしない。目も悪かった。
そこでナツコさんが朝から百姓をし、夕には五右衛門風呂を沸かし、食事を作って食べさせる。
当時は着るものも自分で何とかしたもので、たまの縫いかえの時には夜なべして着物を作ったそうです。裁縫は3年間学校で習ったから2時間でひとつの着物を仕立てられる。生地が強く、毎年縫いかえられた。
6.ロハスな小料理屋のように
働きづめだったナツコさんだが、彼女は決して大変・苦労というわけではなかった。もちろん体はしんどいけれども、面白がって様々なことを試してみたそうだ。
「わたくしはですねーもの好きで何でも挑戦したんですよ。たいがいの人は馬鹿らしかと言ったけれど」
例えば、醤油。
旦那も子もダゴ(団子)やらもちやらが好きで、その味付けの醤油・味噌まで自家製で造った。自家製醤油は美味しいらしい!「朝3時ころ起きて米ば朝から洗といて陰干ししといて11時ころから火炊いて・・」と語れるほど、工程にも面白さがあったようだ。
豚も、さばいた。
多い時で27頭いた豚を、つぶすのは男の仕事、さばいて料理するのは女の仕事だった。豚は毛以外捨てるところが無いほど、きれいに食べていた。これも学校で学んだことを生かしてのことで、漬物から何まで教わった事だった。
焼酎も作った。「なんてん(何でも)つくった」
カライモアメを作ったあとに出るカスで、何かできないかと考えた。そこで焼酎にしてみると飴の甘さもほんのり香って旨い。おばさん!旨いから売ろうと近所の人に言われるほど評判だったそうだ。
「いまの子は食べ物がちょっと違うね~年によって味がかわるよ。24歳ならね・・30歳になると味(の好み)がまた変わるよ」とアドバイスもいただいた。
7.挑戦ぐせ
何でも挑戦するのは、料理や裁縫など家事・百姓仕事だけではなかった。
運動神経も良かったので、水泳で熊本の白川を渡ったこともあった。
話は遡るが、学校行事で登山をするとき、途中の川で休憩があった。幅が太い川と細い川があり、みんなは細い川でパシャパシャ遊んでいたらしい。それを見るとものすごく可笑しくて、ナツコさんは太い川で200メートル以上泳いだそうだ。
太い川の先には堰があって、「危なか~危なか~」とみんなが心配する。けれど堰手前でぴたと停まるので、泳ぎもされど余計に驚かせていた。
登山も好きで、阿蘇山・俵山・くらたけ山・・など挑戦した。くらたけ山は毎年8月19日に馬頭観音さんがあり、それで年に1回は登ったとのこと。
俵山も、学校行事で毎年登山した。
登山前にナツコさんは「馬鹿が~」と先生に怒られた。なんと登山に下駄を履いて行ったからだ。しかし、頂上まで登りついたのは「下駄を履いたナツコさん」だけで、先生をあっと言わせた。変っていて負けん気が強かったのです。
下駄は石の感触が足に伝わりにくいので上りはラク。
下りは転びそうでやや難ありだったそうだ。
8.旅行も好き!
小さい頃は九州が日本全体だと思っていた。大人になってからは、東京までこそは無いものの、名古屋あたりまでは汽車で行った。ほかに広島・島根・四国(の九州から見て手前の方ばかり)へ。四国にはよく行ったそうです。
ゴルフでついたて温泉へ男性18人に紅一点まぎれて行ったことも。
9.戦争について
ちょうどナツコさんが24歳頃のこと。B29が熊本の田舎のほうまで飛来し、防空壕に逃げる日々が続いたそうです。
最初は3機きて、くるくるくるくる旋回していた。それを田舎のばばさんは知らないもんだから仰ぎ見て突っ立っていた。
「なすびの中へかがみなっせ!」とナツコさんが言い、避難させたこともあった。
また別の日には日本の戦闘機が撃ち落とされ、キャベツ畑めがけて落ちて来て、大豆が干してあるところめがけて突っ込み、家の窓を突き破ったこともあった。
防空壕にみな非難するが「かあちゃん、かあちゃん」と幼い子は出てきてしまう。
「仕事もせにゃ、空襲も逃げな、哀れだったよぉ・・」
外で働くのが最も悪く、飛行機から丸見えだった。体が強いものは強いなりに、弱いものは弱いなりに考えて動いた・・・。
姉は終戦すると満州から一人二千円もらって体一本で帰らされた。
10.いまの生活について
孫は全員でなんと26人。
孫は自分にも余裕や暇が出るから可愛くてしょうがない。ひ孫は可愛いが、ナツコさんの白髪や老人であることを怖がってなかなか来ないそう・・。
現在は極楽、極楽だ。
朝5時30分頃目覚め、6時30分頃に朝ご飯。その後、新聞を2時間ほどかけて読む。
爪も自分で切る。テレビは耳が悪くなってからはほとんど見ない。大音量では近所迷惑になるから。
ビールは今でもコップ半分ほど飲む!息子がついてくれるそうで、麦だから体にいいんんじゃないかとのこと。以前はビールも床下出てづくりされていたそうだ。
一生懸命がんばってきた。95歳まで働いて、草取りやスイカの世話をやっていた。
しかし96歳のときに入院してから、何もしていない。
これまでずっと百姓をやってきて、農業は好きだから、今でも少しは草を取るそうです。
「何でん好きならん。好きだったら腹が立たないし、上達する。」
11.案じていること
自分には9人子供がいたけど、一回も喧嘩をしたことがない。息子にも代々いままでもめたことが無いから、しっかりやるんだよと言ってるそう。 家庭は一度もめたら難しい。「後ろに目をもつ」と喧嘩をせず生活できるのだそう。 現代はぱ~っと腹がたったら表に出す。それで終わりならいいが、後までひきずる・・。 「良いことは残らん。悪いことはあとまで残る。」 社会が変って今は働いても食べていけない。自分はお世話になりっぱなしだし、息子を見ると涙がでると・・。
12.長生きの秘訣
くよくよせん!したって何にもならない。体はつかい、お金は無くても気にしない。
ご飯は2杯以上が通常で、3~4杯は食べて働いた。
朝からしっかりご飯を食べるのが良いかもしれないとのこと。
「人間は夢中になったら良かよ。覚えよう、関心があることは良いこと。」
学校に通っていたときは追いつこうと必死で勉強した。
それから「目はうしろにもないと。前ばかりではなく」ということが大切なようだ。
-さいごに-
「よっぽど何か(縁が)あったとねー。24歳でこんな100歳のばばの話を聞いてもらってありがたい。ありがとうございました。」と心配りをされたナツコさん。
若い時は働きずくめだったことや、何でも挑戦して何でも作ったこと、20歳まで生きた息子のことなど、まわりの孫・ひ孫は26人中どれくらい知っているだろう。
自分の肉親ではないからこそ、ここまで沢山のお話をきけたが、家族内でこの取材のようにお互いの人生を明らかにして共有できれば・・お互いにハッピーな毎日を創れそうだと感じる。うるさい母親、寡黙な父、おせっかいな祖母・・たとえばそんな風に思っている家族が、面白い人生を経て目の前に居てくれるのかもしれない。
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取材:伊藤舞
(2012.9.4取材)