橋本 武さん
明治45年7月11日生まれ 京都府宮津市出身 兵庫県神戸市在住
橋本武先生といえば、テレビや新聞、雑誌などのメディアで何度も紹介された
“灘校、伝説の国語教師”である。
「小説『銀の匙』を3年間かけて読み込むという奇跡の授業を行った」
「灘校を東大合格者数日本一に導くという偉業を成し遂げた」
「教え子は、神奈川県知事、東大総長、最高裁事務総長、作家の遠藤周作氏など第一線で活躍する人が多数」
「100歳で、なんとまだ教壇に立っている!」
……等々。橋本武という人物が語られる時には必ずこんなすごい評判がついてくる。
今回、橋本先生は「明治の人」の取材を快く引き受けてくださったが、やはり偉大な人物ということで会う前は少し緊張していた。果たして、実際の橋本先生は神のように近寄りがたいのか、気さくで親しみやすいのか……。
そんな緊張感をもってご自宅を訪れると、橋本先生が顔を出した。銀髪に原色の派手なシャツがオシャレでよく似合っている。玄関も部屋も積み上げられたたくさんの本とカエルグッズがお出迎え。取材が始まり、生い立ちから順に話を伺うと、驚くほどしっかりとした大きな声でお話を始められた。耳は事故の後遺症で少し遠いけれど、とても100歳とは思えないような、若くて通る声。これなら今でも教壇に立つことがあるというのも納得できる。
そして、驚くことにその内容は「100歳まで生きた人」の過去の思い出ではなく、「まだ人生の途中を楽しんでいる人」の未来を見据えたお話だった。
◆少年時代から読み書きが大好き
1912(明治45)年7月11日、橋本武氏は京都府宮津市で、履物の製造販売を営む商家の9人兄弟の長男として生まれた。「父は、履物作りの職人で仕事には非常に熱心でしたが、お酒が好きで飲みすぎると取り乱していましたね。母は農家の生まれで、女学校に行きたかったけれど両親が許してくれなかったと聞いています。勉強好きな人でしたので、私が勉強したり成績が良かったりすることをとても喜んでくれていました」
橋本氏は子供の頃、「とにかく病気がちの弱い子」だったという。勉強は得意で、やはり好きな教科は国語。好きになったきっかけは、小学校3年生の時、受け持ちの先生が授業中に国定教科書なんてほったらかして、真田幸村、猿飛佐助といった英雄豪傑が活躍する講談本を読んでくれたことだった。
「教科書より講談本のほうがよっぽど面白かった。ただ、聞いているだけではだんだん物足りなくなって、自分でも読みたくなる。そこで、母親に『本、買うて』とねだると、母にしてみれば講談本でも何でも子供が“本”を読んでくれるのが嬉しいものだから、すぐに買ってくれました。塙団右衛門直之なんていう名前も覚えていますよ」
また、読むだけでなく書くことも好きだった。
「綴り方の時間にたくさん書けば先生が褒めてくれて三重丸をくれる。それでまた喜んで書いて見せたらまた丸をくれる、といった具合でした。だから、読み書きは自然に好きになっていきましたね」
◆“たまたま”が重なって生かされている!
「私は何度も奇跡的に命を救われているんですよ」
人生で死にかけたことはなんと5回もあるそうだ。そして、いずれも奇跡的に助かっている。中でも印象的だったのは、この話だ。
「中学3年の3学期、私は慢性腹膜炎にかかり、1学期間ずっと学校を休んでいました。痛くも苦しくもないけれど横になっていないといけない病気だったので、退屈しのぎに時々本を読んでいました。その時、家に母が読んでいた『主婦之友』があり、特集記事は「家庭療法」でした。パラパラめくってみると、腹膜炎の療法が載っている。それは、米酢に生卵を殻ごと漬けておくと、殻から細かい気泡が出てくる。殻が柔らかくなったらそれは捨てて、残りを混ぜたものを1日3回分服するというもの。それで、実際に作って飲んでいたら、なんと治ってしまったんです。ところが、同時期に近所で腹膜炎にかかった同じ年頃の女の子が2人いたが、2人とも亡くなってしまった」
同じ病状で、同じ医者にかかり、同じ治療を受けていたのに、治ったのは橋本氏だけ。何が生死を分けたかといえば、あの家庭療法を実践したか否かの違いだけなので、おそらくあのおかげだろうと橋本氏は言う。たまたま『主婦之友』を母親が購読していて、たまたま退屈しのぎに目に入り、たまたま「家庭療法特集」が載っていたから、命が助かった。そんな“たまたま”の重なりで生かされているのだと。
他にも学生時代に二度、奇跡的に命が助かったと思えることがある。一度は小学生に入ったばかりの頃の海で。もう一度は東京高等師範学校に入った頃。暴走車にあと10センチというところではね飛ばされそうになったのだ。
◆東京高等師範学校へ進む
旧制中学4年の時、父親が他人の借金の保証人になってしまったことから家は破産した。「学業はあきらめて丁稚奉公に行くしかない」と思っていた時、担任の先生が「勉学をあきらめるのは惜しい」と、町の医師の家に、中学卒業まで家庭教師として住み込ませてもらえるようにと頼んでくれた。そこで橋本氏は中学校を卒業するまでの残り2年間を過ごすことになる。
その後、東京高等師範学校に合格し、上京。苦学生のため、また家庭教師をしていたが、ある時、漢字研究の第一人者、諸橋轍次氏の補助の仕事や『大漢和辞典』の編纂の仕事を手伝うようになる。この時、「徹底的に調べること」を学んだという。これは後の『銀の匙』の授業にも少なからず影響しているのだろう。
◆私立灘中学校の国語教師として神戸へ赴任
1934(昭和9)年、21歳で東京高等師範学校を卒業。その当時は教授が学生の希望に合った赴任先の学校を決めてくれるので、就職活動をする必要はなかった。橋本氏は「金沢の公立中学に口がある」と聞いていたので正式な辞令が出るのを待っていた。そうしているうちに、まわりの同級生は一人、また一人と赴任先が決まって去っていく。
「いつまで経っても自分だけ声がかからずどうしたことかと思っていたら、4月に新学期が始まって、ようやく担当教員に呼ばれ、金沢の口はダメになったと聞かされました。そして、代わりに『私立だが、神戸の学校に行ってみないか』と言われました」
その「私立」こそ、灘中学であった。しかし、当時、私立は公立より格下と見られていて、同級生はみんな当然のように公立の学校へ赴任している。灘校も今でこそ名門校として全国に名が知られているが、その頃はむしろ落ちこぼれも多い学校だった。とはいえ、他に選択肢もなかった橋本氏は神戸へ行くしかない。「私立でも将来性のある学校だから」とか「2、3年すれば呼び戻すから」という担当教員の言葉をとりあえず信じ、神戸へやってきた。この時の橋本氏は、自分がこれから昭和59年に退職するまでの50年間、ずっと灘の教壇に立ち続けるなど夢にも思っていなかったことだろう。
実際に行ってみると、灘中学には最初から好感を持ったという。
「初代校長の眞田範衛氏は東京高等師範学校のOBでしたし、私に会うなり『先生も10年勤めなければ、一人前とは言えません』とおっしゃいました。創立して間もない学校でしたが、眞田校長は『日本一の学校にしてみせる!』という熱意を持っていて、将来性を感じられる素晴らしい学校でした。そして、眞田校長は私のような新米教師に対しても一切指図をせず、教室を覗きに来ることもなく、すべてをポーンと任せてくれました」
当時の灘中学は、一教科一教師で入学から卒業までの5年間持ち上がり制。授業の内容もすべて自分ですべて決めてよいというシステム。指図がなく自由にできる分、教師一人ひとりの責任は重かったに違いない。しかし、そんな灘中学の自由な授業や校風、眞田校長の熱意を橋本氏は気に入り、やりがいも感じていた。寒がりだったので、神戸の暖かい気候もよかったという。そして、眞田校長の信頼に応えるため、ガムシャラに授業を行った。
◆『銀の匙』を教科書の代わりに!
眞田校長に言われた一人前になるための「10年」を過ぎた頃、終戦を迎えた。神戸も被災したが、灘校は無事だった。ただ、使用していた国語の教科書は、軍国主義を理由に3分の2は墨で塗りつぶされて真っ黒。
「ぺらぺらでこんなものでは授業なんかできないと思いました。それでもなんとか生涯に渡って子供の記憶に残る授業をしたいと考えていました」
1947(昭和22)年、GHQの指示により全国で教育制度改革が行われ、現在の6・3・3・4制に統一。男女共学の公立校が新設され、学区制も適用されるようになった。灘校も高校を新設して中高一貫教育としたが、同じく一教科一教師というやり方は変わらず、今度は中高6年間を持ち上がりで教えることになった。それを機に、橋本先生は次の新入生(中1)から教科書を使わず、中学3年間かけて1冊の文庫本を読むという授業をすることを考えていた。それはかなり思い切ったことだった。
「その頃、たくさん本を読んでいましたが、特に中勘助の『銀の匙』に感銘し、他の作品も全て読みました。中でも『銀の匙』は、夏目漱石が「きれいな日本語」と褒めたほど、美しい文章で書かれていました。さらに、新聞連載小説だったため、長からず短すぎず、教材としては扱いやすい。各章に表題をつけられるのもいいと思い、教材に選びました。内容も中勘助の自伝的小説で子供から成長していく過程の物語ですから、生徒は自分の経験と主人公の気持ちを重ね合わせながら読み進めることができますしね」
そして、橋本先生は一年前からこの授業を行うための準備を始めた。授業を進めるうえでのポイントをまとめた指導要綱のようなものをあらかじめ作っておいたのだ。自分でもわからない言葉の意味は、実際に作者の中勘助氏に手紙で尋ねたこともあった。そうして出来上がった「銀の匙研究ノート」を使い、1950(昭和25)年から『銀の匙』の授業を開始した。
◆自分で調べて見つけたことは一生の財産
授業は、ただ文庫本を読み進めて出てくる事柄を橋本先生が教えるというものではなく、楽しみながら学べる工夫がなされていた。それは、一年かけて橋本先生が行ってきた「銀の匙研究ノート」を作る作業を、生徒にも追体験させるものだった。授業は「銀の匙研究ノート」と題したプリントを配布して書き込ませながら進めていく。生徒はわからない語句の意味を調べたり、章ごとのタイトルをつけたりする。
自分で考え、調べ、話し合う。時には横道にそれ、駄菓子屋の話が出てくれば、実際に駄菓子を配って教室で食べ、凧揚げの場面では実際に凧を作って揚げてみたこともあったそうだ。
「子供たちは、自分で体感し発見したことだから、自然と興味をもち、楽しみながら学んでいきました。遊びの感覚でやるから楽しい。“遊ぶ”と“学ぶ”は同じこと」
しかし、物語は横道にそれてばかりで、ゆっくりとしか読み進められない。2週間で1ページしか進まないということもあった。それに対して橋本先生はこう生徒に諭したという。
「すぐ役立つことは、すぐ役立たなくなります。自分で興味をもって調べて見つけたことは一生の財産になります」
今でこそ「スローリーディング」と呼ばれ、認められている授業方法だが、当時、どこの学校でも実践できたかといえば、それは違った。
「灘校という自由にやりたいようにやらせてもらえる学校だからこそできたこと」と橋本先生は言う。また、この授業を行うためには、橋本先生の苦労も並大抵ではなかった。当時はプリントを作るのもガリ版だったので、夜中2時、3時まで準備にかかることもあったという。しかし、先生の想いは生徒に伝わっていたのだろう。この変わった授業のやり方には文句が出るどころか、プリントを抱えて教室に入ってくると拍手で迎えられることもあった。生徒はみんな国語の授業が大好きになったそうだ。
それから1984(昭和59)年、71歳で退職するまで、灘校では『銀の匙』の授業が続けられた。
◆東大合格者数日本一に!
『銀の匙』で学んだ初代生徒たちは、6年後に15名が東大合格。その6年後、2代目は京大合格者数では日本一に。そして3代目。1968(昭和43)年に灘校はついに東大合格者数日本一という快挙を成し遂げた。
ところが、灘校は「人間性を無視した勉強だけの学校」のように新聞などで書かれ、「ガリ勉」「詰め込み教育」とマスコミにレッテルを貼られた。それに関して、橋本先生は本当に残念そうな表情を浮かべ、「灘校ほど自由な高校はありませんでした」と話す。今こうして『銀の匙』の授業のことが広まったことにより、灘校はガリ勉だというレッテルもはがれ、自由な校風を理解されるようになった。そのことを橋本先生は心から喜んでいた。
『銀の匙』の授業が世の中に初めて紹介されたのは、『銀の匙』の4代目であり、神奈川県知事の黒岩祐治氏が、著書『恩師の条件』の中で橋本先生の授業を取り上げたことによる。それが世間に広まり、橋本先生と授業のことを詳しく書いた書籍『奇跡の教室』の発刊にもつながった。
さらに、その影響で「もう一度、灘の教壇に立って『銀の匙』の授業をしてみたい」という夢も叶った。2011(平成23)年6月、「土曜講座」という特別授業で、現役の灘中学生に向けて『銀の匙』の授業を行ったのだ。
「既にメディアに取り上げられていましたので、『奇跡の授業なんて、こんなものか』と思われたら立つ瀬がないと思い、いろいろ考えて臨みました」
そう言うと、橋本先生は授業の一部を再現してくれた。
●「遊ぶ」と「学ぶ」の違いは何か?
●“ぶ”を取って残った言葉にはどんな語句が当てはまるか?
●「遊」の字がもつ意味は?
●「ぶ動詞」を探してみよう。思い浮かんだ数が今の国語力。
●「あかさたなはまやらわ」を反対から言える?
……などなど。
「あかさたなはまやらわ」を大きな声で反対から言い、「い」の段、「う」の段と、すべての段を逆さまから呪文のように唱えた時は驚いたが、これが本当の授業だとしたら、きっと記憶に残っただろう。それはまさしく橋本先生がずっと大切にしてきた「遊ぶ感覚で学ぶ」授業だった。
◆教師になってすべてがよかった!
灘校を退職後は、頼まれて神戸の予備校の校長に。本当は断るつもりで行ったのだが、結局引き受けてしまったという。また、地域の文化教室での古典の講座も頼まれ、こちらは100歳を迎えた現在も月1回ずつ3ヶ所で教えている。「何をどんなふうにしゃべろうかと常に考えている」そうだ。
教師の面白さについて、橋本先生はこう話す。
「教師は人間対人間で、人と交わることに面白さがあると思います。人間は皆、いろんな能力があって、性格などもそれぞれが違い、それぞれに良いところがあります。それを見つけて接触していくのが楽しい。教師になってすべてがよかった。これ以外の人生は考えられない。教師という職につけたことがありがたいです」
◆源氏物語の現代語訳を完成させる
健康の秘訣を尋ねると、「よく噛んで食べること」と即答。
1口30回どころか、100回以上噛むという。「胃の負担が少なく、脳も刺激するのでボケない」そうだ。
そんな橋本先生も、81歳の時には解離性大動脈瘤を発症し、命も危ないという状態に陥った。それがまた子供の頃のように「奇跡」が起きて救われる。
「牛乳瓶2本半分もの血があふれていたのですが、破れた血管部分が突然かさぶたで覆われ、血が止まったのです。どうしてそうなったかはわからないのですが、医者も“奇跡だ”と繰り返していました」
さらに、85歳の時は車にはねられ、道路にたたきつけられた。後遺症として右耳の聴力はほとんど失ってしまったが、なんと頭を7針縫っただけで済んだという。この時、教え子でもある医師に「先生の声は本当の年齢より20歳は若く聞こえますよ」と言われた。
「それを聞いて、20年はまだ生きられると思った。それで、源氏物語の現代語訳に取り組んだのです。源氏物語は長編なので現代語訳には時間がかかります。でも、20年生きられるなら、できると思いました」
そして本当にすぐに現代語訳に取り組み、9年かけて94歳の時に完成させた。
「この現代語訳は灘校に寄付すると言ったら、黒岩君がお祝いの会を開いてくれました。すると一期生のOBが『このままじゃもったいないから、本にしてみよう』と言ってくれ、2010年に灘校を出版元にして『現代語訳 源氏物語』は本になったのです。源氏物語は谷崎潤一郎や与謝野晶子などいろんな人が現代語訳していますが、私は自分が紫式部になったつもりで書きました。現代の紫式部が平安時代に行って当時のことを書いたような視点で訳しています」
◆目標は大還暦!120歳まで生きる!
橋本先生は趣味も多い。50歳で社交ダンスを始め、60歳からは本人いわく「宝塚に狂った」。その他、歌舞伎、人形浄瑠璃、能楽……。今はカエルグッズ集めと和綴じ本の作成を続けている。「好きなことをやって、やめたくなったらやめる」。
90歳の時、最愛の奥様を亡くされた。それ以降、ヘルパーさんには来てもらっているが、基本的に自分の事は何でも自分でする。
「私は台所にも立ちますよ。汚れ物を残したまま寝たことはありません」
2011(平成23)年11月には日本版イグ・ノーベル賞を受賞。たくさんの教え子たちが駆けつけ、お祝いしてくれたことが嬉しかったようだ。
今の目標を尋ねると、「108歳の茶寿、111歳の皇寿、そして、120歳の大還暦を迎えること」という。120歳まで生きるのは簡単ではないが、橋本先生が言うと現実になりそうな気がする。大還暦には、赤いスーツに白いバラのコサージュという装いでお祝いをすることを楽しみにしているそうだ。
橋本先生の生き方は、昭和や平成生まれの私たちに、日々生かされているという“奇跡”と、好きなことを思い切りやる楽しさ、遊ぶ感覚で学んでいくことなどを教えてくれた。
-最後に、橋本先生からのメッセージを。-
「私の信条は、『高く、広く、明るく』です。
目標を高く、視野を広く、生活は明るく暮らしていきたいと思っています。私は好きなことをがむしゃらにやってきました。皆さんも自分がいいと思うやり方を見つけて、それを迷いなくやり遂げていってほしい。自分がこうだと思うものを見つけて進めてほしい。誰かのマネをする必要もないし、逆にいいなと思えばマネをしてもいい。とにかく自分がやりたいことをやる、ということが大切。自分が好きなこと、やりたいことをどんどんやりなさい」
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取材:山王かおり
(2012.9.3取材)